言葉を剥き出しにしたバトル 読者はただ楽しむだけ

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嫌いなら呼ぶなよ

『嫌いなら呼ぶなよ』

著者
綿矢, りさ, 1984-
出版社
河出書房新社
ISBN
9784309030487
価格
1,540円(税込)

書籍情報:openBD

言葉を剥き出しにしたバトル 読者はただ楽しむだけ

[レビュアー] 伊藤氏貴(明治大学文学部准教授、文芸評論家)

 綿矢りさの真骨頂は、言葉による駆け引きにある。デビュー作『インストール』での、チャットレディになりすました女子高生と、なりすましを見破ろうとする客との攻防戦は秀逸だった。それ以来、人間関係を司るのは事実より感情よりまず第一に言葉であることを示してきた。しかしこの短編集におけるほど、言葉を剥き出しにした激闘が繰り広げられたことはなかったのではないか。

 表題作では、主人公が、妻とその二人の友人夫妻の計五人にとり囲まれて厳しい尋問を受ける。一対五では勝てようはずがない。だから主人公も、たとえばかつてソクラテスが五〇〇人の裁判官の前で長広舌を揮って正面突破を試みたような無謀な真似はしない。ソクラテスはそれで死んだ。主人公は、「ここまで言われて、どうして怒らないの?」と妻から言われるほどの罵詈雑言を浴びても、しおらしく自分の非を認める。

 しかし、心の中の言葉はまったく違う。そもそも議論の前提となる倫理観がまったく違っているのだ。主人公は妻以外の女性たちとの関係を、その実悪いとは思っていない。しかしそれを世間が「不倫」という言葉で呼ぶ限り、自分に勝ち目がないことも知っている。だからこその無口戦略なのであり、とりあえずこの場を逃げ切って、その後の逆転を狙っているのだ。はたして結果は。

 書き下ろしの「老は害で若も輩」は、「綿矢」なる作家と、そのインタビュー記事を書いたライターとの、記事内容をめぐる熾烈なバトルに、若い編集者が巻き込まれて三つ巴の戦いを繰り広げる。

 もちろんこの「綿矢」は作者自身とは別人格だろうが、それにしても腹の立つ人物で、こういう作家に振り回される編集者はお気の毒としか言いようがない。

 とはいえこうしたバトルを、深刻すぎないかたちで描くのが綿矢一流の筆致だ。読者は観客席で笑いをこらえつつ見守るだけでよい。

新潮社 週刊新潮
2022年8月25日号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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