「夜のパン屋さん」の活動などが注目される料理研究家・枝元なほみさんが紹介する3冊

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  • ドリトル先生航海記
  • 土
  • ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー

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本の森に分け入る

[レビュアー] 枝元なほみ(料理研究家)


料理研究家の枝元なほみさん

売れ残ったパンを夜に再販する「夜のパン屋さん」をはじめ、生産者や農家に寄り添った活動を続ける料理研究家の枝元なほみさんが、胸にぐっと響いた3冊を紹介します。

枝元なほみ・評「本の森に分け入る」

 膨大な新潮文庫の中から3冊を選んで何かを述べるだなんて、うーん、困った。

 たくさんの作品世界の森に迷い込むような感じがしたからだ。読んだことのある本、読みたかった本、知らなかった本の中に分け入ると、次々と新たな景色が見えてくる。そういえば、「本」の字は「木」の中に横棒が一本入るのだな。

 そう思ったら、森の中、木陰のベンチに座って、または木に繋いだハンモックに揺られながら本を読むようなゆったりした気持ちになった。

『ドリトル先生航海記』は、森にではなく海へ冒険に出かける話だ。読み直してみて、子供の頃の、物語に夢中になった自分を思い出した。

「ものがたり」の世界に戻ってきたよ私、ワクワクした。

 たまたま今朝、起きがけに聞いていたのはモーツアルトだった。そうか、ドリトル先生の物語は、モーツアルトみたいだ。楽しんで跳ねて、どこまでも走ったり柔らかに歩いたり踊ったり。華やかに明るく、おおらかに自由に冒険する。

 ドリトル先生は、助手になったトミーのことを丁寧にスタビンズ君と呼ぶその調子で、誰に対してもなんに対しても真っ直ぐな目を向けて進んでいくような人だ。サルやイルカなどだけでなく貝の言葉まで学ぼうとするような、空想世界の扉を次々開けてくれる、子供にとっての〈理想の大人〉だ。そうだった、子供の頃の私は本に導かれて大きな空想の世界を自由に旅していたじゃないか。大人になって子供に還るためにもう一度、福岡伸一さんの訳に先導されて読み直すべきだったんだな、ドリトル先生。

 家庭料理を考えるのが私の仕事だ。料理学校に行ったことはないけれどそれでも、〈食べる〉という、人が生きる根っこにつながる仕事だから、おのずとその根っこである農業や食べ物を生産する現場に関心が向いた。

 だから、長塚節の『土』は、いつか読まなければ、と思っていた本だ。明治期の、茨城の貧しい小作農の暮らしぶりを描いた小説。

 文字を追いながら、音や匂い、空気や水の冷たさをとてもリアルに感じた。なんなら、ひんやりした敷き布団の薄さ硬さまで感じるような気がした。それはこの小説のタイトルである土の、作物を生み出す大きな力を持ちながら、人の情が関与する隙さえ見せない厳しい自然が持つ〈闇さ〉ゆえでもあると思えた。精緻でリアルな描写の絵を見るようだった。

 私はつい最近、「新しいプロジェクトをプレゼンするためのワークショップ」というものに参加しなければならないという困った事態に遭遇した。まるでスティーブ・ジョブズが神であるかのように、立板に水、いっときの退屈も許すまじ、淀みなく自信に満ちて話す、圧倒して説得する、そんな感じのプレゼン方法を教わる。なんとも今風だった。100パーセント私に不釣り合いだと思えた。天を仰いだ。ならば、と私は思い立った。

 澱んでつっかえて、たゆたって、立ち止まってうずくまってやる。

 静かに沈んで、底のリアルを捕まえてやる。

『土』の汚れの強さを身に塗りこんで佇んで、そのことで人と繋がりたい。

『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』の舞台は、時は現代、場所も明確にイギリスの街ブライトンだ。書き手は、モーツアルトではなくセックス・ピストルズの系列に並ぶロックでパンクなスピリットの持ち主、ブレイディみかこさんだ。しかもブレイディさん、この本に登場する時は、かあちゃんとしてなのだ。カッコよすぎる。何度も胸熱になって泣いた。

“「善意は頼りにならないかもしれないけど、でも、あるよね」

 うれしそうに笑っている息子を見ていると、ふとエンパシーという言葉を思い出した。”

“他人の靴を履いてみる努力を人間にさせるもの。そのひとふんばりをさせる原動力。それこそが善意、いや善意に近い何かではないのかな”

 期末試験に出た「エンパシーとは何か」という問題に、「誰かの靴を履いてみること」と書いた息子の話だった。私、エンパシー、という言葉についてその後何度も考えた。

 ロックであることは、実は迷ったり立ち止まったり沈んだりしながら底にある確かなものに触れることでもあるのだと思ったのだ。大事な本になった。

新潮社 波
2022年9月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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