『遠い指先が触れて』島口大樹著

レビュー

2
  • このエントリーをはてなブックマークに追加

遠い指先が触れて

『遠い指先が触れて』

著者
島口 大樹 [著]
出版社
講談社
ジャンル
文学/日本文学、小説・物語
ISBN
9784065288436
発売日
2022/08/11
価格
1,760円(税込)

書籍情報:openBD

『遠い指先が触れて』島口大樹著

[レビュアー] 海老沢類(産経新聞社)

■記憶取り戻す男女の冒険

個人をその人たらしめるものは何だろう? もちろん要素は複数あるけれど、過去のさまざまな経験、つまり個人の唯一無二の記憶もその一つに挙げられると思う。そして、記憶を主題とした名作は数多い。楽しい思い出だけでなく、現在の安穏や幸福を根底から破壊しかねない辛い記憶も…。日本生まれの英作家カズオ・イシグロによるファンタジー仕立ての長編『忘れられた巨人』が、誰もが忘れ去りたくなる負の記憶とどう向き合うべきかを問うていたことを思い出す。

昨年デビューしたばかりの新鋭が手掛けた本作にも、それと似た問題意識が流れている。都内の銀行で働く主人公の萱島(かやじま)一志は実の両親を知らずに育ち、物心つく前から左手の薬指と小指の先が欠けている。ただ、そうなってしまった原因についての記憶はあやふやだ。そんな一志を、幼いころにある施設で一緒だったという女性・中垣杏が訪ねてくる。「私たちね、なんか記憶がなくなってるらしいの」。2人とも幼少期の記憶の一部が何者かによって操作され、消されている、と驚きの事実を告げる杏。やがて奪われた記憶を一緒になって探し始めた2人の前に、謎めいた人物とシステムが立ち現れる。昔の傷を忘れるのも賢明な処世術かもしれないけれど、失われた「自分」も取り戻したい―。そのはざまで揺れながらも過去に向き合おうとする2人の愛と冒険は、意外な結末に至る。

時間や人間の意識のありようを、人類史的な視座でとらえる硬質な思弁性が物語に深みを添えている。出色なのは、語りの野心的な実験だろう。一志の視点「僕」と、杏の視点「私」が何度も滞りなく入れ替わっていくのだ。確かに一人称を用いれば、浮かんでは消える記憶の不確かさにしっかり寄り添えるし切実さも増す。効果はそれだけではない。「僕が覚えていることは大抵彼女は覚えていなくて、彼女が覚えていることは大抵僕は覚えていなかった」と一志。読んでいるうちに、この小説の語りの構造自体が、互いの欠落を補い合う痛切な愛の形のように見えてくるのだ。そう思ったとき、作中の悲しい光景の数々が、かけがえのない瞬間として迫ってくる。(講談社・1760円)

評・海老沢類(文化部)

産経新聞
2022年10月2日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

産経新聞社

  • このエントリーをはてなブックマークに追加