『ダダ・カンスケという詩人がいた』
書籍情報:openBD
『ダダ・カンスケという詩人がいた 評伝陀田勘助』吉田美和子著(共和国)
[レビュアー] 梅内美華子(歌人)
弾圧、29歳獄中死の人生
ダダ・カンスケという詩人がいた。語りつがれることがないまま時代の波間に沈んでいった詩人の足跡を追ったのが本書である。この本を手に取るまで私もその存在を知らなかった。彼の活動と生きた時代を初めて本格的に明らかにした評伝である。ダダ・カンスケは陀田勘助とも記した。ペンネームは大正半ばに流行したダダイズムの影響を受けている。しかし著者は「ちょっと先端を気取ってみた挑戦」で「本質的にはダダイストではない」と見抜いている。「荷物自動車よ/俺の無感覚を轢(ひ)いてしまへ/痛感も生存の紋章だ」という詩に、空疎に終わらない生の実感が宿っているからだ。
著者がダダ・カンスケに注目し調査することになったのは、望月晴朗の油彩画「同志山忠の思い出」(東京国立近代美術館所蔵)の「山忠」がカンスケの本名山本忠平であることに気づいたからである。絵には1928年の東京駅、労働組合の二派がにらみ合う中で演説している忠平が描かれている。すでに労働運動家として詩から離れていた。ピースが当てはまった時、カンスケ・忠平に繋(つな)がる何本もの糸が著者に見え始める。
隅田川東岸の紡績工場が立ち並ぶ町に育ち20代初めはプロレタリアの詩誌発行に奔走、『女工哀史』の細井和喜蔵とも親しく出版記念会では司会を務めている。関東大震災後、無実の労働者たちが軍に殺害された亀戸事件が彼を奮い立たせたか、アナキズムに転じ、ボルシェヴィズムへと傾いてゆく。日本共産党東京委員会では同時期に田中清玄がいた。検挙後、獄中で再び詩を綴(つづ)ったが十分な裁判も行われないまま刑務所で死亡、29歳であった。小林多喜二が拷問死したのはその2年後である。治安維持法下の闇黒(あんこく)時代、生き抜こうとする前に弾圧された青年たち。今もロシアをはじめ世界に自由と権利を剥奪(はくだつ)された人たちがいる。多くの資料を駆使したこの労作は忘却の罪を突いてくる。