<書評>中上健次論 渡邊英理 著
[レビュアー] いとうせいこう
◆巨大資本とどう対峙したか
中上健次が没して三十年が経(た)つ今年も、私は和歌山県新宮の墓に参った。移動の間にこの刺激的な本を読みつつ。
著者の初めての単著は中上のデビュー作『一番はじめの出来事』から開始する。そして短編連作『熊野集』を詳細に分析し、やがて秋幸三部作の頂点と言われる『地の果て 至上の時』を読み解く。
その時、著者が携えるのは「(再)開発文学」という枠組みで、戦後日本の大規模(再)開発、すなわち資本主義の巨大な動きに文学はどう対峙(たいじ)したかを、中上にとっての「路地」(実在の被差別部落)の解体に沿って語る。
よく忘れられがちな事実だが、路地は「七〇年代末から」「同和対策事業の対象となり」、(再)開発される。そして同じ時期に『熊野集』や『地の果て』は書かれる。
中上愛読者は路地の消滅をついノスタルジックに作家のずいぶん過去の出来事として受け取ってしまうのだが、中上のきわめて重要な時期にこそそれは取り壊されるのだ。
ではその直接的な資本の介入に、作品はどう立ち向かったか。著者の分析は細かな行政の動きにも及び、同時に中上の発言を網羅しつつ、例えば「国家と資本に抗(あらが)う」公共地こそが路地だったのだと論を導いていく。
また『地の果て』で語られがちな父子の神話的な対決という定型に、著者は「アニたち/群れ」という項を強調して硬直を解き、また(再)開発という視点からチッソによる鴨緑江(おうりょくこう)のダムでの電力事業と『地の果て』を結びつける重要な指摘を行う。石牟礼道子『苦海浄土』との比較は私の中で長く待たれたものだ。
あるいは時に中上が女性への暴力を描いたことにも著者はこれまでとは別様の、例えば「女たちの(声なき)声の配置」、「男性中心主義の言説を批判的に対照する」といった解析を丁寧に行い、小説による批判を現実のアジアでの性暴力にまで及ばせる。
こうして中上を語るときの決まりごとを次々とひっくり返してみせる大著は爽快だ。そしてかの小説群が「中上の資本論」とも思えてくる。
(インスクリプト・4400円)
大阪大大学院准教授・日本文学。編著書『クリティカル・ワード 文学理論』。
◆もう1冊
中上健次著『千年の愉楽』(河出文庫)