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一生モノの「三冊」
[レビュアー] 仲野徹(生命科学者・大阪大教授)
大阪大学医学部医学科卒業後、内科医から生命科学者として研究の道へ進み、現在は「隠居」として悠々自適に暮らす仲野徹さんが、一生モノと紹介する文庫3冊とは?
仲野徹・評「一生モノの「三冊」」
「新潮文庫の100冊」を毎年楽しみにしている。編集部から好きな三冊をとの原稿を依頼されて、百冊となると大変やけど三冊やったら楽勝やないかと思った私はアホでした。大阪梅田にある大型書店の新潮文庫の棚の前で、文字通り立ち尽くしてしまった。ええ本が多すぎるやないの。百冊なら容易だが、三冊に絞るのは身を切るようにつらい。というのは大げさだけれど、相当に難しい。
この三月まで大阪大学医学部で教授を務めていた。そのかたわら、ノンフィクションのレビューサイトであるHONZで面白い本を紹介したり、読売新聞の読書委員として書評を書いたりしていた。読書委員としての二年間に四十三冊をとりあげたのだが、小説は五冊だけ。やたらとノンフィクションにかたよった読書をしている。そんな感じだから、どうしてもノンフィクションから選びたくなる。その方が対象になる本が少ないし。
気を取り直して棚を見なおすと、科学ノンフィクションを書かせたら世界一!と私が勝手に褒めちぎっているサイモン・シンの著作があるではないか。『フェルマーの最終定理』、『暗号解読』、『宇宙創成』、『数学者たちの楽園』、いずれも甲乙つけがたしなのだが、えいやっと『暗号解読』を選びたい。
あるテーマを紹介するようなノンフィクションの場合、その素晴らしさを判断するのは比較的たやすい。まずは、そのテーマについて正しく、そして、わかりやすく書かれているということ。なおかつ、網羅的であること。言い換えると、一冊読めば、そのテーマについてよく理解でき、少なくとも当分の間は類書を読む必要がなくなるのがいい本だ。もちろん『暗号解読』はそんな一冊である。
大昔の狼煙から最新の量子暗号まで、その歴史を紹介しながら、どのような暗号が使われてきたかをわかりやすく紹介していく。とりわけ力が入っているのは、第二次世界大戦中にナチス・ドイツが使用した暗号機「エニグマ」を用いた暗号の解読についてである。天才数学者アラン・チューリングが中心になっておこなわれたことはよく知られているが、その過程はスリリングですらある。
おつぎは日本のノンフィクションを。これは大好きな沢木耕太郎から選びたい。若い頃の短編集もいいし、伝記好きとしては、プロボクサー・カシアス内藤の『一瞬の夏』、檀一雄の『檀』、登山家・山野井泰史の『凍』、さらには、藤圭子の『流星ひとつ』も捨てがたい。しかし、いざ選ぶとなると『深夜特急』しかありえない。
あまりに有名な本なので、紹介するまでもないだろうか。二十六歳の私、沢木耕太郎が、乗り合いバスでアジアからヨーロッパの果てまで旅行するという話だ。あとがきにある、これから旅をしようと思う若者への餞のメッセージ「恐れずに。しかし、気をつけて」に痺れた読者がどれだけいたことだろう。
最後は小説から、山崎豊子の『白い巨塔』を選びたい。浪速大学医学部を舞台に、教授を頂点とした医局制度の問題点や、権力闘争を描いた小説である。長く勤めていた母校・大阪大学医学部がモデルだと語られるが、それは間違いであることは声を大にして言っておきたい。ホンマに『白い巨塔』に書かれてるような出来事があったら、おもろうてしかたない教授生活やったろうけど。
何度もテレビドラマになっているので、医学部というのはこういうところだと思われているかもしれない。しかし、この本が書かれた一九六〇年代はいざ知らず、現在では『白い巨塔』のような利権や権威などありはしない。あぁ、こんな時代もあったのかという、ある種の「時代劇」として読むのがあらまほしい姿勢である。しかし、さすがは山崎豊子、人間ドラマとしても壮絶な面白さだ。
三冊と言いながら、たくさんの書名をあげてしまいました。それに、『深夜特急』は全六巻、『白い巨塔』は全五巻なので、『暗号解読』の上下巻と合わせると、計十三冊にもなってしまいますがな。どれも長くてすんません。でも、「三冊」とも読み応えある本なので、その読書記憶は一生モノになること間違いなし。ぜひ読んでみてください!
※[私の好きな新潮文庫]一生モノの「三冊」――仲野徹 「波」2022年10月号より