『小説家の一日』
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読後の余韻も素晴らしい現代短篇小説の逸品たち
[レビュアー] 杉江松恋(書評家)
人は心を書く。人の心を描く。
井上荒野『小説家の一日』は「書くこと」についての連作短篇集だ。「何ひとつ間違っていない」は、新人作家のデビュー作出版を断らなければならなくなった編集者の鬱屈を描いた作品で、日本文藝家協会の年間アンソロジーにも採られた。出版界を描いた現代小説の逸品である。
書く行為を共通項として内容は多岐に亘る。「料理指南」は料理家だった母親が友人に贈ったレシピノートに隠された真意を、娘が読み取る物語である。「窓」では、いじめに耐えられず頻繁に保健室通いをする中学生がトイレの落書きを通じてある発見をする。「園田さんのメモ」は、出版社でアルバイトを始めた世間知らずの娘が、付箋に書いたメモでたびたび注意をしてくる先輩社員に不審の念を抱くことから始まる話だ。
書くという行為には人の思いが詰まっていて、それがわかった瞬間に胸の中にこみ上げてくるものがある。物語に覚えた感慨を受け止め、さらに意外な興趣を加えるのが結末の数行である。どれも幕切れがいい。題名の意味が最後に判明する「緑の象のような山々」、読者に対して主人公が自身の決断を宣言するように見える「凶暴な気分」など、読後の余韻からしばらく抜けられなくなる。
報われぬ恋愛を描いた作品も複数収録されている。前出の「緑の象のような山々」もそうなのだが、日記を書いている現在と、かつての不倫相手に関する追想が絶妙な形で重ね合わされる「名前」が絶品だ。読んで、心がぐじゃぐじゃになった。
表題作は井上自身を思わせる作家が語り手で、幼年期を描いた「好(はお)好(はお)軒(けん)の犬」と姉妹篇である。どちらも小説が生まれる過程が描かれてスリリングだ。「つまらない湖」も同趣向なのだが、創作に結びつく高揚は滅多に訪れず、精神を鈍麻させる日常の中でその瞬間を待つしかないということを改めて思い、感銘を受けた。小説家、この不思議な生き物よ。