記憶をめぐるミステリを軸にした純文学的な実験。その結末は……

レビュー

  • シェア
  • ポスト
  • ブックマーク

遠い指先が触れて

『遠い指先が触れて』

著者
島口 大樹 [著]
出版社
講談社
ジャンル
文学/日本文学、小説・物語
ISBN
9784065288436
発売日
2022/08/11
価格
1,760円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

記憶をめぐるミステリを軸にした純文学的な実験。その結末は……

[レビュアー] 伊藤氏貴(明治大学文学部准教授、文芸評論家)

 忘れたくても忘れられないことは誰にでもあるだろうが、忘れようとする努力はかえって記憶を強めるばかりで、なんの甲斐もない。消したい記憶だけを消せる装置なり薬なりがあればと願う者も少なくあるまい。

 逆に、失われた記憶を取り戻そうという努力はどうだろう。もしそれが完全に消えた記憶ならば、努力自体が成立しない。忘れたことすら忘れてしまっているので、取り戻そうとも思わないはずだからだ。

 しかし、銀行勤めの「僕」の職場に突然訪ねてきた女性は、自分たちが幼い頃同じ施設で育ったはずという曖昧な記憶を刺激するばかりでなく、実は二人はある組織によって記憶の一部を消されているのだという。そう言えば「僕」には、職場のパソコン操作にも不便な、左手の薬指と小指の欠損がなぜ生じたのかという幼い頃の明確な記憶がない。

 女性とともに、記憶を消したことに関わる謎の人物を探し、映像の形で保管されているという自分たちの記憶を取り戻そうとする。だが、相手は言う、消した記憶はあまりに悲惨なことであり、だからこそ消してやったのだと。それを聞いた二人は果たしてそれでも記憶を取り戻そうとするだろうか。そうしたら、もう元には戻れまい。

 こうした一種のミステリを軸としながらも、一方で本書は純文学的な実験をも試みる。それは語りの人称に関するもので、「僕」ばかりでなく女性もまた「私」として一人称で地の文を語るため、「僕」と「私」の語りが溶け合っていく。どちらの語りなのかを読み分けるのが大変だが、これはたんなる遊戯的実験ではない。個人の自我が記憶によって形成されるものである以上、そこに欠損のある二人が互いに個としての線引きをしないのは自然だからなのだ。

 しかし、となると記憶が再生すれば二人の関係は……。その結末が謎解きの答とも重なる、純文学的ミステリ、あるいはミステリ的純文学だ。

新潮社 週刊新潮
2022年11月3日号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

  • シェア
  • ポスト
  • ブックマーク