『愉快なる地図』
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満州事変勃発時に大陸横断 女ひとり旅
[レビュアー] 梯久美子(ノンフィクション作家)
書評子4人がテーマに沿った名著を紹介
今回のテーマは「鉄道」です
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〈私は宿命的に放浪者である。私は古里を持たない〉
林芙美子『放浪記』にある有名な一節である。行商人だった両親と、幼いころから各地を転々とした芙美子は、生涯、旅を好んだ。
『愉快なる地図 台湾・樺太・パリへ』は、彼女が書き残した多くの旅行記から選んで編集された文庫オリジナル。最大の読みどころは、1931年11月、シベリア鉄道でのヨーロッパ行きだ。
芙美子が乗ったのは三等のコンパートメント。隣室には蓄音機を持ち込んでレコードをかけるドイツ商人やタンゴを歌う大男のロシア青年がいる。芙美子は彼らからお茶やトランプに呼ばれ、〈出鱈目なロシヤ語〉で笑わせる。
部屋付きのボーイからは身の上話を聞き出し、彼の部屋で紅茶やスープをごちそうになる。
当時の芙美子は27歳。この年の9月には満洲事変が起こっている。危ない時期に女ひとり大陸を横切って旅をしたにもかかわらず、彼女は〈信州路行く汽車の三等と少しも変りがありません〉と書く。
ずいぶん肝が据わっているようにも思えるが、彼女にとって旅とは、生きている実感を得るために必要なものだったのだろう。
〈私は人に疲れ、世情に飽きてくると、旅行をおもいたつのだ〉
〈私のたましいは旅愁の渦のなかにのみ生々としているようである〉
芙美子と同じ思いで旅を欲する人は、現代にも一定数いるに違いない。