『韓国文学の中心にあるもの』
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歴史と寓話
[レビュアー] 大塚英志(まんが原作者)
死人が生き返るモチーフのまんがをもう二十年以上書き続けているから、ゾンビ映画の類は仕事柄、鑑賞することも多い。その中で気になったのが韓国のゾンビ映画が、必ずと言っていいほど「階級」が主題となっていることだ。ゾンビに襲われゾンビ化する人も「階級」によって暗黙の内に選別されているのだ。つまり、ありふれた言い方だが「社会」の寓話としてあることを恐れていない。
今、何気なく「寓話」と書いたが、興味深いのは、韓国映画の表現が社会を描く時、それを「寓話」の域にまで陶冶することだ。だから、チョ・セヒ『こびとが打ち上げた小さなボール』を読んだ時に困惑したのが、これがマジック・リアリズムに見えてしまったことだ。「こびと」が作中に登場するが、ぼくは自明のこととしてこれが何かの寓意を仮託された人物造形であると受けとめ、しかし、そうではなくリアリズムとしての「こびと」なのだと読み進めることで理解し、そして混乱したのだ。
斎藤真理子『韓国文学の中心にあるもの』によれば、『こびと』は「維新の時代」と呼ばれる、朴正煕(パク・チヨンヒ)政権下の七〇年代韓国が政治的背景にある。そこでもたらされた「目覚ましい経済成長」が生んだ矛盾と、「過酷な暴力装置」としての国家によって抑圧された「階級」を描こうとしているとわかる。幻想小説ととれる手法はいわば権力の目を逃れる技術であるとも。ぼくがマジック・リアリズムと一瞬、錯誤したのは「寓話」を読みながらその背後にある韓国の歴史や社会を参照することを忘れたからだ。
ここに文学に限らず韓国の表現の特長がある。
韓国の文学者にとって徹底して歴史や社会に根差すことは当然の小説作法で、自作をまるで時計の針を合わせるかのごとく改稿し続ける作家が紹介される。
もう一つの特長が高度な寓話化だ。斎藤はキム・ジヨンが主人公を「「普通」「平均」を目指して作られた、きわめて人工的なキャラクターである」こと、そして、この小説の、いわば「フェミニズム養成めがね」を実装させる力の所在を指摘している。
このような極端な「寓話」は江藤淳ふうに言えば歴史や地勢図もないサブカルチャー文学として読め、韓国表現の汎世界化の理由ではないかとも思える。
それは「構造しかない」物語を語ることで世界に届いた日本のまんが・アニメと近似はしているが、歴史や現実を忌避する日本の表現と、徹底して根差しつつ「寓話」化した表現の違いは大きい。
だから日本での韓国小説ブームに小さな危惧としてあったのは、「寓話」としての強度に支配されつつ、しかし、表現と歴史や社会を切断するのが自明の読み方をするこの国の読者に、小説から韓国の歴史や社会がどこまで想起されるのか、ということだ。
斎藤は、だからこそ今は「寓話」としてこの国に受容された韓国文学の、根差す現実を本書で丹念に説くのだ。
翻訳者としての責任を果たす批評だといえる。