近年、出版業界で起こった不祥事を背景に 2022年の日本の空気感を再現した息苦しくなる小説

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フィールダー

『フィールダー』

著者
古谷田, 奈月, 1981-
出版社
集英社
ISBN
9784087718072
価格
2,090円(税込)

書籍情報:openBD

自分の正しさを生きればいい

[レビュアー] 相川千尋(翻訳者)

 読んでいて息苦しくなるほど、二〇二二年の日本の一部の空気感をそのまま再現したような小説だった。主人公の橘(たちばな)は、立象社(りっしょうしゃ)という総合出版社に勤める編集者だ。この立象社という出版社は、近年日本の出版業界で起こったさまざまな不祥事のほぼすべてが次から次へと起こる、まことにとんでもない会社なのであるが、たとえば社長の差別発言に対して社内から批判の声も上がる、まっとうそうに見える一面も持ち合わせていたりする。橘はそんな立象社の良心と言われる人権派小冊子『立象スコープ』を編集している。

 ある日、橘が担当する著者で、児童福祉の専門家である黒岩文子(くろいわあやこ)に女児への小児性愛者疑惑がもちあがる。自宅で近所に住む女児と裸で抱き合っていたところを、夫に目撃され、さらには立象社関係者の前で、そのことを暴露されたのだ。

 橘の元には、黒岩から自身の行為は愛情ゆえの交流であったと弁明する長いメールが届く。橘は黒岩を信じ、救いたいと願うが、一方、同じ社内の週刊誌編集部の同僚は事件を社会問題としていち早く取り上げることこそが正義だと主張する。しかし、その主張の裏には、部数を伸ばすためという商業主義が見え隠れする。それぞれの登場人物が信じる正義や、立場によって異なる正しさがぶつかり合い、橘は自身の「正しさ」への志向について自問自答を繰り返す。

 この小説には、もうひとつ別の世界が登場する。『リンドグランド』というオンラインゲームの世界だ。橘はこのゲームでひとりの少年と出会い、その少年を「かわいい」と思い、いつくしむ。橘が少年を思う「かわいい」と、黒岩が女児に向ける愛情はパラレルだが、片方は社会的に許容され、片方はそうではない。判断の境界線は、相手が未成年であるかどうか、実際に身体に接触する行為があるかどうかといったところにあり、現実世界に当てはめてみれば、まったく当然の基準であるが、小説という人間の複雑さを描く媒体の中で読まされると、読者の気持ちは揺らぐ。

 黒岩と橘に共通するのは、自分が信じる「正しさ」が、自分の内側から出てきたものでなくてはならず、当事者でなければならないとする考えだ。フィールド(現場)に立たなければならない、「フィールダー」にならなければならないという、生真面目なコンプレックスである。だが、このコンプレックスこそが、ふたりをゆっくりと突き動かし、社会的な善悪を超えた選択へとそれぞれ導いていく。黒岩は、異なる正しさ、エゴのぶつかりあいによって傷つくことを「自分とは異なる理想を持つ生き物に、噛まれて、穴だらけにされる」と表現する。立象社内の立場を背景とした正しさどうしの戦いを読み、現実世界でのできごとにあれこれ思いを馳せた後では、この言葉は私には何か解放のように感じられた。噛まれて、穴だらけにされても、それでおしまいとは限らない。正しさを人に委ねず、自分で決めて生きていくしかないのだと、自分勝手に解釈をして、背中を押される思いがした。

河出書房新社 文藝
2022年冬季号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

河出書房新社

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