『JULIE by TAKEJI HAYAKAWA 早川タケジによる沢田研二』
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沢田研二のとてつもない衣装をつくった男 早川タケジ インタビュー
[文] 新潮社
1970年代から80年代にかけて、男女ともにアイドルが輝いた時代だった。郷ひろみや西城秀樹、野口五郎ら男性アイドル歌手が活躍していたのもこの頃だ。そんな中でもひと際異彩を放っていたのが、「ジュリー」こと沢田研二だった。
甘いマスクや歌声などジュリーの魅力を挙げるとキリがないが、唯一無二と言えるほどの妖艶な雰囲気に圧倒され、他とは違う才能を感じ取った方が多いのではないか。
そうしたジュリーの衣装を手がけていたのが、早川タケジ(75)だ。ジュリーと早川のクリエイションを集大成した超豪華本が完成したというので、 話を聞くべく早川のもとを訪ねた。
圧倒的なインパクトを与えた衣装
この写真は「ジュリーの樹里」というお酒のCMのために撮影されたカットだ。“派手”を極めたような1枚だが、細部にもご注目いただきたい。石にまで、すべて色が塗ってある。
「この石、小型トラックで1台分あったんですよ。写っているのは、ほんの一部だけなんです(笑)。ひとつずつ銀のスプレーで塗りました。背景は、歌舞伎の大道具さんから借りています。写っていないけど、原色のオウムもいたんですよ。言うことをきかなくて、どっかに行っちゃうんです(笑)」
当時の沢田研二といえば、曲ごとに、凝りに凝った衣装で、圧倒的なインパクトを与えていた。その衣装を担当していたのが、早川タケジだ。
が、早川はファッションデザイナーではなかった。もともとはイラストレーター志望で、アートスクールで絵を勉強し、モデルとしても活躍していた。早川が出演していたフジカラーのCMを見た沢田研二のプロデューサーが、早川に声をかけたのである。最初の仕事は「危険なふたり」。これが評判を呼び、その後、歌の時はもちろん、雑誌のグラビアにCMにポスターに、ジュリーのヴィジュアル・衣装・演出は片っ端から早川が請け負うことになった。
曲だけ聞いて、パッと絵が思いつく
「まずはテープで、曲が詞と一緒に来るんですが、わたしの場合、曲だけ聞いて、直感力で進んじゃうのが多かったですね。歌詞に沿って熟考して……とかいうようなことはなかったです。パッと絵が思いついちゃうんです」
たとえば、ジュリーが落下傘を背負って歌い、日本中に衝撃を与えた「TOKIO」の場合、まずひらめいたのが、映画『フラッシュ・ゴードン』だったという。
「アメリカに行った時に断片的に見た『フラッシュ・ゴードン』のワンシーンと、学生の頃に見た女優ラクエル・ウェルチの映画が、自分の中で自然に合体しちゃったんです。ウェルチはグラマラスな女優で、『空から赤いバラ』という映画のポスターで落下傘を背負っていました。映画自体は、すっごいつまんないものなんですが(笑)」
とはいえ、歌のセットに落下傘まで準備するのは予算的には大変で、
「何百万円もかかりましたね。当時としては破格の値段でした」
驚きのステージ衣装とジュリーのプロ根性
ジュリーがまるでアンドロイドになったかのような衣装もあるが、これは実際にステージでも着用された。
「自分の服は、へんてこなものでも、ステージで着れちゃうというのが自慢ではあります。撮影だけで終わるのではなく、これで歌って、踊ることができる。プラスチックのところがぶつかると痛いので、ケガをしないようにヤスリできれいに削ったりしています。ゴムに絵を描いて、ウレタンで肺をつくり、心臓はプラスチック、腸のところに豆電球が入っています。後ろには電源を背負っていて、暑いし、着るのは大変なんですよ。沢田さんのプロ根性は本当に見上げたものです」
過剰なものを求め、要素を次々と加えていく
早川は、洋裁は一切できないという。
「大雑把な性格で、細かいことは苦手なんです。服の仕事って作業が細かいじゃないですか。縫製の方とか、細かい作業が好きな方が多いんで、助かりましたけどね。自分で全部やるのは、絶対に無理でした(笑)」
「LOVE(抱きしめたい)」をテレビで歌う時には、毎回スタジオ内で雨を降らせた。
「全部のテレビ局でやってもらうというのは大変だったはずです。でも毎回じゃないとダメだ、とお願いしていました。マネジャーの方は苦労されたんじゃないでしょうか」
この頃のジュリーの数々のパフォーマンス映像は、2022年の今見ても、まったく古くさく感じられない。
「流行とか意識していませんからね。自分では娯楽だと思っていて、それを徹底しているつもりでした。楽しんでもらうには、どうやったらいいのか、というのが、まずはいちばんでした」
それにあたっては、過剰なものを求め、要素を次々と加えていくのが、早川流のやり方だ。
「これでもかという感じで、どんどん足していっちゃってね。モダンデザインではいろいろなものを捨てていきますが、私はまるで逆です。ファッションでも工業デザインでも、機能性を追求した美しさというものがあって、ミニマルなものは、きれいだと思います。でも自分の性には合わない。積み重ねていったほうが楽しい」
普通の人が、いったんステージに上がるとあまりに艶めかしい
1970年代からスタートしたジュリーとの仕事は、なんと2021年の「ソロ活動50周年ライブ」まで続いたが、そこでいったんケリをつけた。
「私はモデルのアルバイトをしていたので、美男美女は見慣れていました。でも沢田さんは、彼らとは全然違う。会って話していると普通の人だけど、いったんステージに上がると、これがあまりに艶めかしい。狙ってポーズをつけるわけではなく、意識してやっていないから、余計に凄いんですよね」
ちなみに、早川が若い頃に通っていたアートスクールは、ファッション・イラストレーターの草分け的存在だった長沢節の学校で、早川の絵は長沢から高く評価されていたという。一方で、「絵がダメになるから」と、衣装の仕事はやめたほうがよいと言われていた。実際、衣装をつくっている時には、あまりの忙しさに、絵を描く時間などなかった。今ようやく、早川はじっくりと絵と向き合う生活を送っている。