読んでいる私自身が、余命宣告を受け緩和ケアを選んだ「私」を生きる 角田光代が語った特別な読書体験とは

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無人島のふたり

『無人島のふたり』

著者
山本 文緒 [著]
出版社
新潮社
ジャンル
文学/日本文学、小説・物語
ISBN
9784103080138
発売日
2022/10/19
価格
1,650円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

寄り添われる、という読書

[レビュアー] 角田光代(作家)


山本文緒さん

58歳で余命宣告を受けた作家の山本文緒さんによる闘病記『無人島のふたり 120日以上生きなくちゃ日記』が刊行された。ある日突然、ステージ4の膵臓がんと診断され、闘病生活が始まった山本さんが最期まで綴った日記では、病と向き合わざるを得ない心の動きを体験したと、作家の角田光代さんは語ります。30年来のつきあいのあった角田さんが感じた、寄り添われる、という闘病記とは?

角田光代・評「寄り添われる、という読書」

 二〇二一年十月十三日に、作家の山本文緒さんが永眠された。個人的につきあいのあった私は、文緒さんが闘病されていたこともまったく知らなかったので、逝去の知らせに呆然とした。いったい何が起きたのかまったくわからなくて混乱した。呆然とし、混乱したまま、でも日は過ぎて、お別れの会があり、もう一年がたってしまった。それでもなお、その呆然と混乱は続いている。その文緒さんが、闘病の日々を書いた日記が本書である。

 山本文緒さんの小説は一貫して、読み手を、登場人物にのりうつらせると私は思っている。共感や感情移入とは異なって、もっと生々しく、登場人物の身体のなかに、読み手を入れてしまうのだ。たとえば『自転しながら公転する』であれば、私は読んでいるあいだ語り手の「都」を生きた。都の体験を体験し、都の気持ちの揺れを揺れる。文緒さんの書く人たちは、実際の私自身とはことごとくかけ離れているのに、そのかけ離れた登場人物にのりうつらされることが、私はずっと不思議だった。文緒さんの書く、けっしてむずかしくはない文章に、どんな魔力がひそんでいるのだろうといつも思うのだ。

 文緒さんが書き綴ってくれたこの日記にも、同じ魔力がある。

 冒頭で、文緒さんは「突然膵臓がんと診断され、そのとき既にステージは4bだった」と書き、抗がん剤治療をせずに緩和ケアに進むことを決めたと記す。

 あるとき胃が痛くなる。でも人間ドックも毎年受けているし、病院にいっても医者は首をかしげる。病院を変えてようやく検査入院、あれよあれよという間に「膵臓がん、ステージ4」と告知される。そこで文緒さんは「そんなことを急に言われても、というのが正直な気持ち」と書き記す。途方に暮れているうちに、たった一度の抗がん剤治療のために髪は抜け、具合のよい日と悪い日があり、具合のよい日には死ぬなんてことが信じられず、事務手続きがあり、葬儀について夫と話す。お見舞いにきてくれる人を気遣い、夫を気遣い、読者までをも気遣うようにユーモアをちりばめる。

 読んでいるうち、いつの間にか、書かれていることが他人ごとではなくなっている。読んでいる私自身が、余命宣告を受け緩和ケアを選んだ「私」を生きる。

 そんなこと突然言われてもと思い、そんな簡単に割り切れるかボケ! と神さまに言いたくなり、めそめそし、本当に死ぬのかと思い、家のなかのものを整理し、それに飽き、自身の人生を思い返し、支えてくれる夫に感謝し、泣いている夫を見て泣き、余命宣告から120日目を数え、これで最後かもと思いながら人に会い、来週ではなく、明日を数え続ける。追いつかれるとわかっていてもなんとか逃げられないかと思う。

 書き記されているとおり、山本文緒という人はかなりの頑固ものだし、「半歩普通からはみ出していないと爆発的な喜びを感じない」特異さもある。そもそも闘病記を逃病記と言いつつも書き綴る、その精神力は並外れている。その上彼女は、周囲の身近な人に、いや、読者にまで、自分がいなくなることを、かなしませることを、死を背負わせることを、最後の最後まであやまり、気遣っている。強さとやさしさが、この日記ではおそろしいくらい同義だ。

 私とはぜんぜん違う。違うのに、やはり、小説と同じように、私はこの「私」の日々を文字どおり、体験する。身体的な痛みと苦しみだけが読み手の私には、ない。そのことが心底申し訳なくなるほど、ここに描かれた、逃げながらも病と向き合わざるを得ない心の動きを、運命を受け入れていく過程を、読むことで体験する。「つらい話をここまで読んで下さり、ありがとうございました」と書き綴る「私」に、私自身は内側から、そんなこと言ってる場合じゃないよ! と叫びそうになる。

 通常、闘病記とくくられる日記や体験記において、余命を数えながら言葉を紡ぐ作者に、読み手は寄り添う。本書の場合はそれが反転する。「私」にのりうつって突然あらわれた死におののく読み手に、作者が寄り添ってくれるのだ。しかし甘言は言わない。死はこわくないとも言わないし、また会えるとなぐさめることもない。でも、驚くほど近くに寄り添っていてくれる。

 最後に記された日の文章を私は忘れることができない。このなんでもない言葉のなかに、私が今まで見送ってきた多くの人がいるし、この先の私自身もいる。それで気づく。無人島で生ききった「私」にのりうつりながら、私は私個人の生きることと死ぬことを見つめていたのだ、それに、作者の山本文緒さんは寄り添ってくれていたのだと気づく。

新潮社 波
2022年11月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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