読者をこの世の外へ連れ出す「美しい夢の庭」

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月面文字翻刻一例

『月面文字翻刻一例』

著者
川野芽生 [著]
出版社
書肆侃侃房
ジャンル
文学/日本文学、小説・物語
ISBN
9784863855458
発売日
2022/10/19
価格
1,870円(税込)

書籍情報:openBD

読者をこの世の外へ連れ出す「美しい夢の庭」

[レビュアー] 石井千湖(書評家)

『月面文字翻刻一例』は、ファンタジーを専門にする比較文学研究者であり、歌人としても活躍する川野芽生の三冊目の単行本。月の文様を彫る職人が禁忌にふれる表題作、人間と眠りが覇権を争う「不寝番」、本を盗んで追われている子供が奇妙な頼み事をする「本盗人」など、五十一編を収録した掌編小説集だ。どの話も豊かな語彙と緻密な文章構成によって鮮烈なヴィジョンを提示し、読者をこの世の外へ連れ出す。

 例えば〈あのね、薔薇園を造るのよ〉という一文で始まる「遠き庭より」。語り手は夜、体をベッドに横たえたまま、意識だけ起き上がって庭へ向かう。寝室から庭に至るまでの道筋を一歩一歩丁寧に思い描いてゆく。透徹した思考でのみ辿り着ける庭で咲く薔薇は、花びらの襞と襞のあいだに月の光をたっぷり溜めて、虫もたからず病気にも犯されず、どんな悪いものも決して寄せ付けないという。美しい夢の庭の描写は語り手の苦痛に満ちた現実の裏返しだが、誰にも汚されない場所に逃避して終わりではなく、帰って戦うことを予感させる結末がいい。読点が棘に見えてくる、つるばらのように長くのびる文体にも引き込まれる。

 最後の収録作「蟲科病院」も印象深い。主人公は碧い鉱物混じりの雨が降り、竜が出没する街に住むルルズルーという医者だ。専門は、患者に問題行動を起こさせる蟲を体内から取り除くこと。ある日、男装して大学の医学部に通っていた女が悪性の蟲を宿す人物として連れてこられる。彼女の手術を担当したルルズルーは、恐ろしい事実を発見する……。

 本書における幻想は、「蟲科病院」の蟲のように人間の精神に良くも悪くも影響を与え、同時に人間を体という牢獄から解放してくれる生きものだ。言葉で創られた幻想たちと一緒に本の中を自由に動きまわることで、残酷な出来事もどこか愉快に感じられる。そして不条理な世界を生き延びる力が得られるのだ。

新潮社 週刊新潮
2022年11月17日号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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