『勝負の店』久住昌之著(光文社)
[レビュアー] 苅部直(政治学者・東京大教授)
「勝負の店」と言っても、生き残りをかけて冒険する商店に関するドキュメンタリーではない。ここで勝負するのは、飲食店に向かいあう著者自身。はたから見れば一人相撲に近いが、これは何ともスリリングで、しかもうまくいけば美味(おい)しい果たし合いである。
旅先はもちろん、ふだん通り慣れている近所でも、入ったことのない飲食店の前では緊張する。お茶やランチのために訪れたのならまだいいが、夜にゆっくり飲み食いしたい場合は、特にそうである。料理が明らかに手抜きだったらどうするか。ドアをあけたとたんに、常連客からいっせいににらまれないか。
そのときスマートフォンで店の評価を検索したりせず、自分の勘だけを頼りに「勝負」を挑むのが久住昌之の美学である。日本各地(また上海でも一か所)での、そうした探訪記を三十八本もまとめた一冊。「いい飲食店は、そこにいる客の表情がいいものだ」。「どんな店であっても、営業しているということだけで、物語なのだ」。そんな風に語る大らかな姿勢が、普通のグルメ本とは異なる味わいを生んでいる。