『評伝モハメド・アリ アメリカで最も憎まれたチャンピオン (原題)Ali:A Life』ジョナサン・アイグ著(岩波書店)

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評伝モハメド・アリ

『評伝モハメド・アリ』

著者
ジョナサン・アイグ [著]/押野 素子 [訳]
出版社
岩波書店
ジャンル
歴史・地理/伝記
ISBN
9784000245487
発売日
2022/09/21
価格
3,960円(税込)

書籍情報:openBD

『評伝モハメド・アリ アメリカで最も憎まれたチャンピオン (原題)Ali:A Life』ジョナサン・アイグ著(岩波書店)

[レビュアー] 森本あんり(神学者・東京女子大学長)

伝説の拳 新たな一面

 すでに一〇冊以上の評伝が書かれているが、それでも語り尽くせない。二〇一七年に刊行された本書は、関係者への膨大なインタビュー、FBIと司法省の未公開資料、全試合のパンチ数やヒット数など、多くの新しい情報が盛り込まれた結果、チャンピオンの体躯(たいく)そのもののように美しく重厚な大部となった。

 ボクシングに興味のない人でも、カシアス・クレイからモハメド・アリへと改名した王者のことを知らない人は少ないだろう。白人キリスト教徒の価値観に正面から挑戦した愛国者は、「ベトコンに個人的な恨みはない」と徴兵拒否をして王座を剥奪(はくだつ)されながら、四年近いブランクの後に復帰し、「キンシャサの奇跡」でジョージ・フォアマンにKO勝ちした。極めつきは、病にふるえる手で聖火に点火したアトランタ五輪の開会式である。人種差別に抗議して金メダルを川に投げ捨てた、という伝説は事実ではなく、実際には本人がどこかで紛失しただけというが、その無頓着ぶりもまたアリらしい。

 新しい知見も多い。彼のディスレクシア(失読症)は、独自の空間認識能力を育んでボクシングに有利に働いたかもしれない。最初の伝記を編集したのは後のノーベル賞作家トニ・モリスンで、後に彼女が語る「ニグロがいるのはアメリカだけだ」という言葉もアリのものだったことを知った。ただし、本人は生前に出版された伝記をどれも読んだことがないという。

 ボクシングは、ノーマン・メイラーが言うように「肉体を使った言語」である。スピリチュアルでおおらかな彼を、女たちは愛した。多くの女を泣かせたが、男泣きも多い。引退間際の試合で負けると、勝者が泣きながら彼のコーナーに来て言うのだ。「心から尊敬しています」

 六百頁(ページ)近い大著の最後に、あるエピソードが語られている。わたしも最後の一行を読んだ時、それまでこらえていた涙を、どうにも押しとどめることができなかった。押野素子訳。

読売新聞
2022年11月11日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

読売新聞

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