『反乱者 (原題)INSURRECTO』ジーナ・アポストル著(白水社)
[レビュアー] 柴崎友香(作家)
米比戦争 虐殺追う2人
フィリピンの女性翻訳家マグサリンがミステリー小説を構想、その登場人物である有名映画監督の娘キアラが自作の脚本の翻訳を依頼し、2人が出会って物語が動き出す。何層もの虚構の内と外を行き来し、フィリピンとアメリカの戦争と支配の歴史が描かれる。というと複雑そうだが、交錯する挿話と語りに日本にも共通するアメリカ文化の影響やねじれた滑稽さが詰め込まれていて、引き込まれて読んでしまう。
キアラの父が1970年代にフィリピンで撮影したベトナム戦争の映画、となると『地獄の黙示録』を思わせるが、それと並び称されながらも忘れ去られた映画との設定だ。幼少期にその撮影現場にいたキアラは、父母の記憶と資料を辿(たど)り、父の未完の映画が1901年の米比戦争での住民の蜂起と米兵による虐殺事件を扱っていたとして、マグサリンとその島へ向かう。
2人の「演出」がせめぎ合い揺らぎながら、映画の制作と小説が多重に進行する。小説も映画も、誰かの視点であり演出である。今まで誰が語り、表現してきたのか。そこにある権力と意図を、メタフィクションの形式が浮き彫りにする。作家、映画監督、虐殺事件を告発する写真家を女性にして歴史を語り直そうとする一方で、キアラが設定した白人女性写真家に「白すぎる」とマグサリンは疑問を呈す。支配してきた国と支配されながら文化的影響を受けてきた国の間で、モハメド・アリとプレスリーが重要な役割を担っているのもおもしろい。アメリカ留学を経験したマグサリンと有名人の娘キアラが奇妙にねじれた連帯を結び、想像された映画の中で虐殺が再現されるが、あまりに凄惨(せいさん)で表現することの困難さに直面する。語ることのできなさに抵抗し、支配されてきた側の声をどう伝えるかを、作家は体現しようとしている。そしてフィリピンでアメリカと戦争をしたその後も両国と深い関係にある日本の私も、この小説の傍観者ではないのだと思う。藤井光訳。