『屋根裏のチェリー』
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小特集 吉田篤弘『屋根裏のチェリー』刊行記念
[レビュアー] 吉田篤弘(作家)
吉田篤弘の長篇小説『屋根裏のチェリー』の文庫が刊行。『流星シネマ』と響きあう物語について、作者の吉田さんが語る。
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『屋根裏のチェリー』は、『流星シネマ』の続篇として書いたものです。ですから、出来ましたら、『流星シネマ』を先にお読みになってから、本作を開いていただいた方がよいかと思います。
ただ、単独でも読めるように書いたつもりなので、独立した一作として、お読みいただくことも出来るかと思います。
『流星シネマ』(以下、略して『流星』)は、本書にも登場する太郎が主人公で、本作の主人公であるサユリは、ほんの脇役として登場しています。すなわち、『流星』は太郎の物語で、『屋根裏のチェリー』(以下、略して『チェリー』)はサユリの物語なのですが、どちらも一人称で書いているので、共通する場面はあっても、視点が異なっています。
太郎が目にしたものをサユリも見ていて、二人はいくつかの経験を共有していますが、胸のうちに湧き起こる思いはそれぞれです。同じ経験をしていても、それに対してどう考えているかを、二人の主人公はお互いに知りません。
物語が進んでいく時間にも相違があり、サユリの物語は最初のうち、太郎の物語と並走していますが、途中から、太郎の物語を追い抜いて、その先の時間までつづいています。
『流星』で語られなかったことが、『チェリー』で語られ、『チェリー』で判然としなかったことが、『流星』で説かれています。
つまり、この二冊は、連なった作品ではあるけれど、それぞれがお互いの物語を知り尽くしてはいないのです。
これはしかし、実際の人間関係においても同じかもしれません。
われわれは、友人や恋人や家族のことを、「知り尽くしている」とは、なかなか言えません。
しかし、あるときふと、通じ合う瞬間が訪れることがあります。お互いが、お互いの欠落を補完し合うように結びつき、言葉を尽くさなくても、急に分かり合えるときがくる――。
物語には、そうしたことが、しばしば起こります。
物語において起きるのであれば実際の人間の営みにおいても、起こり得るのではないでしょうか。
そんなふうに、響き合ったり、つながったりしていくことが、人が生きていく上で、最も喜ばしい結実であるように思います。
何をいまさら言っているのかと思われるかもしれませんが、だから自分は、物語を書いたり読んだりしたいのだと、『チェリー』を書いているあいだ、たびたび、そんなことを考えていました。
さて、太郎の物語とサユリの物語が響き合うことで、このふたつの物語は完結なのかというと、そうではありません。
物語には─そして、人生には─往々にして、三人目があらわれるものです。
「第三の男」という、いにしえの映画もありました。
太郎とサユリの物語にも、「第三の男」は存在し、彼─ソガという名前です─を主人公としたソガの語る物語があり、これはごく近いうちに、単行本としてお読みいただけるかと思います。
タイトルは、『鯨オーケストラ』。
『流星』『チェリー』につづく、三つ目の物語です。
三つが共鳴することで、より大きな物語が、交響曲のように立ち上がらないものか─そうであってほしいと願っています。
このソガの物語は、やはり、太郎やサユリの物語が描かれた時間から、さらに先へと進んでいきます。太郎もサユリも知らなかったことが、「第三の男」によって語られるのです──。
話を『チェリー』に戻しましょう。
本作に登場するチェリーという女の子は、いったい、何者なのかという話です。
これは、あくまでも作者の考えるところで、解釈は限りなく自由ではありますが、ひとことで言いますと、チェリーは漫才におけるボケとツッコミの「ツッコミ」を担っているのです。
本作は、先に書いたとおりサユリの一人称で、しかも彼女は部屋にとじこもり気味で、他者との交流に消極的です。となると、その語りは、延々、彼女の独り語り──独白となり、会話や対話といったものが見られなくなります。とかく、独白はひとりよがりになりがちで、自分の思いや意見を一方的に語るだけになってしまうものです。
それは、どうもいただけません。
自分の考えが正しいと信じていても、一度は、自ではない誰かの考えと照らし合わせてみるべきです。あえて、意見を戦わせ、そうすることで、より強度を持った考えを見つけられるように思います。
それゆえ、独白にはツッコミが必須で、しかも、このいささか閉じられた物語には、いきいきとチャーミングなツッコミを繰り出してくれる女の子が必要でした。
おそらく、一人で生きていくことは特別なことではありません。というより、人は、まずしっかり一人で生きて、「一人」が板についてきたところで、初めて「二人」の楽しさや喜びを見いだせるのでしょう。
とはいえ、一人はつまらないし、さみしいし、独断と偏見に満ちています。だから、ツッコミが必要です。
では、どんなツッコミを相手に、一人の時間を過ごせばいいのか。
そして、そうした時間の先に、どんな風景が見えてくるのか。
『屋根裏のチェリー』は、誰よりも作者である自分がその風景を見たくて書いたのです。
(二〇二二年 風が吹いている夜に(『屋根裏のチェリー』「文庫版あとがき」より)