プッチーニに「世界にたった一人しかいない、最も理想的な蝶々さん」と絶賛されたオペラ歌手・三浦環の生涯

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プッチーニに「世界にたった一人しかいない、最も理想的な蝶々さん」と絶賛されたオペラ歌手・三浦環の生涯

[レビュアー] 井上志津(ライター)

 三浦環は日本人として世界で初めて認められたオペラ歌手といわれている。「蝶々夫人」の舞台に主役として2000回立ち、作曲者プッチーニからは「あなたは世界にたった一人しかいない、最も理想的な蝶々さんです」と絶賛された。

 明治、大正、昭和の時代、自分の「声」一つでプリマ・ドンナの階段を駆け上がった三浦環とはどんな人物だったのか? その知られざる実像に迫ったノンフィクション『奇跡のプリマ・ドンナ オペラ歌手・三浦環の「声」を求めて』(大石みちこ著/KADOKAWA)が刊行された。

 本人直筆の手紙を含む膨大な資料から三浦環の生涯を描き切った本作の読みどころを、ライターの井上志津さんが紹介する。

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 三浦環は日本人として世界で初めて認められたオペラ歌手といわれている。「蝶々夫人」の舞台に主役として2000回立ち、作曲者プッチーニからは「あなたは世界にたった一人しかいない、最も理想的な蝶々さんです」と絶賛された。本書は明治、大正、昭和の時代、自分の「声」一つでプリマ・ドンナの階段を駆け上がった三浦環の人間像をつづった伝記ノンフィクション。

 三浦環は最近では2020年のNHK連続テレビ小説「エール」で柴咲コウ扮(ふん)する登場人物のモデルとなり、話題となった。筆者はあいにく「エール」を見ていなかったが、三浦環に対しては男性遍歴などで騒がれた人というイメージを持っていた。しかし、本書を読んで、その印象は大きく変わった。直筆の手紙を含む膨大な資料をもとにしたという本書からは、彼女の生まれながらの品の良さや行儀の良さといったものが感じられた。

 本書は環の晩年までを丁寧に描く。著者の大石みちこ氏は脚本家なだけに、ドラマティックな内容を期待する向きもあるかもしれないが、筆致は一貫して抑制されている。滝廉太郎や新聞記者、フランケッティなど、環の周囲で噂にのぼった男性も登場するが、その真偽が深く追及されることはない。環の手紙の文面や、後輩に親切なエピソードなどから浮かび上がるのは、無邪気さや天真爛漫さといった彼女の生来の性質の良さであり、読後感を温かくさせている。

 1884(明治17)年、環は日本初の公証人・柴田孟甫の長女として東京に生まれた。幼少時から日本舞踊や長唄、箏曲を習い、何不自由なく育ったという。高等小学校を卒業すると、良家の子女が通う東京女学館に入学。本書でたびたび引用される三浦環の口述本『お蝶夫人 三浦環遺稿』(吉本明光編、限定版、右文社刊)(以下、「遺稿」)はこう記している。

「お父さんが進歩的な、そして派手好みだったので、それで東京で一番ハイカラな女学校に入れて下さったのでした」

 声の美しさは小さなころから評判で、環は東京音楽学校(現・東京芸術大学)で声楽を学ぶことを目指す。父は「音楽はあくまで稽古事。女学校を卒業したら結婚すべきだ」と反対するが、環の決意は固く、陸軍軍医、藤井善一と結婚した上で学校に通うなら、という父の条件を飲み、音楽の道を選んだ。既婚者の入学は認められていなかったので、家族以外には内緒の別居婚だった。

 上野の音楽学校へ通う環は、当時珍しい自転車通学をした。前髪は赤いリボンで結び、紫の矢絣の着物、海老茶の袴に靴を履いて、赤い自転車のペダルをこぐ環の姿は評判を呼び、新聞が「自転車美人」と書き立てたという。同じころ、読売新聞で連載された小杉天外の小説「魔風恋風(まかぜこいかぜ)」に登場する「自転車美人」は環がモデルではないかとする説もあったようだ。

 東京音楽学校時代に踏んだ歌劇の初舞台が成功し、環は研究科に進むと同時に教員としても授業を持つようになる。が、天津、小倉での勤務から帰国して環と暮らし始めた夫の藤井は、夫を放ってレッスンに忙しい妻の様子に納得がいかない。藤井は仙台に転任するのを機に、環に仕事を辞めるように言うが、環は「私、東京で音楽を続けます」と拒否し、離婚に至る。

 このころ、環が静岡に住む祖母たちに送った手紙が本書で紹介されている。夫婦仲が悪化している時期のはずなのに、環が好物の梅干しを何度もねだっているのがおかしい。

「御上京の時にはどうぞ梅干をお買ひ遊ばして、少しおもち下さいませんか、私梅干が大好きなので毎日たべて居りますが東京では三つ一銭で其くせまづいので御座いますからどうぞ御ねがひ申します」

「おいしき梅干 山々御めぐみ下され、有難く厚く御礼申上候、朝食事の時、梅干をいただく事は何よりの心地よさにて、嬉しう存じ上候」

 著者は環が祖父に送った手紙も紹介する。

「おぢいさん 病気しませんか、私はまたひまが出来たらおそばにまゐりますよ。からだを大事になさいましね。おばあさんを私のところへ来させて下さいな、そうすればみなさんにたくさんおみやげをあげますからたのしみにおまちなさいな」

 著者は「お年寄りを気遣い、子供へ言葉をかけるような優しさに満ちている」と書いて、環の気持ちの細やかさを指摘している。これ以降も、環の性格の良さを強調する箇所が多く出てくる。

 次に環が結婚したのは医学者の三浦政太郎。「芸術家は社会の花です。(略)妻だからといって家庭にとじこめることは公徳を無視した封建思想です。芸術に対する大きな冒涜です」と言って環の父を説得した政太郎に環は感動し、2人は結婚する。

 新聞は環が藤井との離婚後すぐに政太郎を誘惑したなどと報じたそうだが、騒ぎをよそに1914(大正3)年、環と政太郎はドイツへ留学する。第一次世界大戦の勃発によりロンドンへ避難し、ロイヤル・アルバート・ホールで歌う幸運に恵まれた環は、一夜のうちにスター「マダム・タマキ・ミウラ」になった。そして「蝶々夫人」の出演依頼のチャンスをつかみ、1915(大正4)年5月、日本舞踊を取り入れた振り付けで蝶々さんを演じ、絶賛された。

 その後の環は世界中で蝶々さんを演じ、どこに行っても歓待された。一方、現地の日本人からは「生意気」といわれたという。1921(大正10)年、政太郎はロンドンの研究所を辞めて一人で帰国。環も翌年、イタリア人の伴奏者、フランケッティと共に8年ぶりに帰国したが、次々と発売したレコードが注目を集めた半面、フランケッティとの仲も噂された。かつては「芸術家は社会の花です。妻だからといって家庭にとじこめることは公徳を無視した封建思想です」と言った政太郎だったが、このころになると、このまま自分と一緒に日本に留まるか、あるいは欧米でプリマ・ドンナとして活躍するか選ぶよう環に迫る。ホノルル公演を控えていた環は、フランケッティとの契約をホノルル公演を最後に打ち切ることを条件に、海外行きを政太郎に承諾させる。政太郎のビタミンの研究が完成し、博士の学位を修得したら、環が日本に帰ってくるという約束もする。が、帰る機を逸したまま、1929(昭和4)年、政太郎は日本で一人で亡くなった。環は後にこう語っている。

「研究室に顕微鏡を覗いては暮してゐた夫の、満たされない心を考へないではありません。(略)けれども(略)わたしは自分の芸術以外には、何もないのです。夫もそれを知ってわたしを妻としたのです」

 環は1935(昭和10)年に51歳で帰国し、1946(昭和21)年5月、62歳で死去した。

 環の死後、生前の希望通り、解剖が行われたという記述は興味深い。軍医だった藤井、医学者だった政太郎。2人の夫の仕事について、環が尊重していたことの表れといえるのではないだろうか。

 本書で惜しむらくは掲載写真の少なさだ。環や政太郎や、環の母が写った写真の説明が文中のところどころで出てくるので、実物が見たかったと思った。

 頭の上に赤いリボンを付け、紫の矢絣の着物、海老茶の袴に靴を履いて、赤い自転車のペダルをさっそうとこいだ若き日から、病床でも化粧を欠かさず、ベールを被っていたという晩年まで、一人の女性の姿が目に浮かんでくる一冊だ。

アップルシード・エージェンシー
2022年12月1日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

アップルシード・エージェンシー

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