知的営為の舞台裏 宮崎哲弥『教養としての上級語彙 知的人生のための500語』

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教養としての上級語彙

『教養としての上級語彙』

著者
宮崎 哲弥 [著]
出版社
新潮社
ジャンル
語学/日本語
ISBN
9784106038914
発売日
2022/11/24
価格
1,650円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

知的営為の舞台裏

[レビュアー] 読書猿(独学者)

読書猿・評「知的営為の舞台裏」

 西洋には、読んだ本などから抜き出した言葉を一冊にまとめていく、コモンプレイスブックという伝統がある。古代より始められ、ルネサンス期以降、学者や作家の間で盛んとなり、後には一般の人達の間にも広がり、十九世紀には嫁入り道具のひとつにすらなった。コモンプレイスcommonplaceとは、ラテン語のlocus communisの英訳で、「一般的な、共通のトピック(話題)」という意味であり、再利用のために、出会った言葉からこれといったものを抜書きし、まとめたものがコモンプレイスブックである。

 元々、個人の便宜のために各自でつくってきたコモンプレイスブックは、しかし私的なものに留まらなかった。ある程度の分量を持つコモンプレイスブックをつくるには、日々の継続が必要であり、長い時間がかかる。それならば他人がつくったものを元にして、自分で継ぎ足した方が早く楽にできるのではないか、と考える者が現れた。著名な学者が私家版としてつくったものが印刷出版されるようになり、これらを元にして、やがて百科事典や引用句辞典といった、我々が現在知る形態の参考図書が登場することとなった。個人的な抜書きの蓄積が、公開され流布することで、広く人々を助ける知のインフラと化したのである。

 我々は今、同様のことが行われるところに立ち会っている。『教養としての上級語彙』という書物は、宮崎哲弥という評論家が少年時代から長年抜書きしてきたノートが元になってできたものだ。本や雑誌、新聞などで未知の言葉に出会う度、書き写し、辞書で調べ、それを何年にもわたり継続していく。そうして積み重ねられた言葉の蓄積は、ノートの上だけではなく、宮崎氏の血肉となり、知的営為の基礎となった。本書は、何十年と書き続けられてきたそのノートから、現在の宮崎氏が抜粋し編纂したものである。

 日本語の語彙集には、主に受験生の語彙の不足を補うために学習参考書として出版されたものが、これまでも存在した。高校等で指定図書とされることもあり、中には数十万部まで版を重ねた隠れたベストセラーとなっているものもある。これらは、教師や講師が未熟な人たちに上から与えるタイプの語彙集である。

 先行するこれらの参考書語彙集に対して、『教養としての上級語彙』は似て非なる書物である。

 言葉が思考に形を与えるものである以上、言葉を自家薬籠中のものとする抜書きという習慣は、あらゆる知的営為を根底で支えるものである。少なくとも、何らかの形で文章を書くことを生業とする人たちは、宮崎氏ほどの密度と執拗さで続けることはなくとも、文献をただ読み流す以上のことを、自分の身体により深く刻み込むための知的訓練を、経験している。昭和の作家志願者ならば志賀直哉の短編小説「城の崎にて」を筆写したかもしれない。知的生産ブームにインパクトを受けた者なら、出会った情報や自身の思いつきを「京大式カード」に書き貯めたかもしれない。いずれも、出会った言葉をそのまま受け流さず、自らの手で書き留めること。そうしてこれを倦まず弛まず続けて習慣とし、自分だけの知的財産を作り上げること。

 こうした訓練ないし習慣の痕跡は、完成品として届けられる書物にあらわれることは稀である。通常は、あくまで舞台裏のものとして隠される。例外的に、師弟のような親しい間柄でのみ密かに伝えられる類の事柄であるのだろう。

 本書は、その知的営為の舞台裏に読者を招待する。「まえがき」で明かされる本書の成立過程だけではない。長年の抜書きから抽出された本書の内容は、著者が何をどんなふうに読んできたのかを詳らかにする。その中を行ったり来たりすることで、我々は普段使わないような「上級語彙」を手にするだけでなく、むしろ次のことを思い知る。

 語彙を身につけるとは本当はどういうことなのか、それはどれほどの時間を費やすべき事業であるのか、新しい語彙を身につけることはどれだけ視野を広げ、世界を精緻に見ることにつながるのか、またこれらの作業は多大な時間を費やしてもなお完成には程遠い未完のものに留まらざるを得ないのか、を。

 未完であるということは、この書を手にした我々が、同様の作業を続けていくことが求められる、ということでもある。この新しいコモンプレイスブックを元に、我々自身のコモンプレイスブックを書き継いでいくよう、本書は誘う。

 本書は、この世界に満ちた、人を言葉の貧困の中に留めおこうとする力に抗う方法と実践を示すものである。

 人文知なるものは、こうしたささやかな抵抗と、その継承の上に花咲く以外に場所を持たない。

新潮社 波
2022年12月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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