『古代ギリシアの民主政』
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『古代ギリシアの民主政』橋場弦著(岩波新書)
[レビュアー] 苅部直(政治学者・東京大教授)
現代に通じる生活の「文法」
著者、橋場弦による旧著『丘のうえの民主政――古代アテネの実験』(現在は『民主主義の源流』講談社学術文庫)は、古代ギリシアのポリスにおけるデモクラシー(デモクラティア)の歴史に関する定番書として、長らく読書界に知られてきた。二十五年後に刊行された本書では、さらに内容が広がり深まっている。
デモクラシーは、いわゆるアテナイの最盛期、ペロポネソス戦争が始まる前の時期における、都市の「丘のうえ」にのみ存在していたわけではない。橋場は最新の研究成果に基づきながら、そのことをじっくりと論じてみせる。
表題に言う「民主政」は、理念としての「民主主義」でも、「民主制」の制度でもない。古代のギリシア人にとっては、ポリスという共同体のなかで「生きるもの」であり、身体感覚にしみとおった生活の「文法」であった。そうした特質に着目するならば、アテナイの民主政は四百年ものあいだ、ペロポネソス戦争ののちも断続しながら存在し、ローマ人に征服されるまで生きのびていた。さらにギリシア本土やエーゲ海、シチリア島や黒海沿岸に至る広い範囲で、多くのポリスが民主政を採用していたことが、現在では明らかになっている。
また、民主政を支えたのはポリス全体への参加のしくみだけではない。市民が各地域の自治に携わり、自分たち自身を統治するための責任感と名誉の意識を培う。そういう習俗が根づいていたからこそ、民主政は長く持続しえたのだった。情報公開と公文書保存の制度が、すでに確立していたという指摘も重要である。
民主政は衆愚政に堕落しやすい不安定な政体である。そうした批判がトゥキュディデスやプラトンによって唱えられ、近代の政治思想にも継承されてきたことを、本書は指摘する。社会の分断とポピュリズムの脅威が民主政を危機にさらしているという、現在よく見られる論じ方も、同じような発想だろう。だが現代に絶望する前に、民主政の原点をなした古代人の世界を探訪してみるなら、大事な知恵がそこから得られるはずである。