『大江健三郎の「義」』尾崎真理子著(講談社)

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大江健三郎の「義」

『大江健三郎の「義」』

著者
尾崎 真理子 [著]
出版社
講談社
ジャンル
文学/日本文学、評論、随筆、その他
ISBN
9784065284445
発売日
2022/10/20
価格
2,750円(税込)

書籍情報:openBD

『大江健三郎の「義」』尾崎真理子著(講談社)

[レビュアー] 苅部直(政治学者・東京大教授)

行間に隠れた「根」探る

 大江健三郎の代表作『万延元年のフットボール』では、「本当の事をいおうか!」という印象深い言葉を、登場人物がくりかえし発している。作者自身が示すところによれば、これは谷川俊太郎の詩からの引用である。だが小説家がみずからの創作について「本当の事」を語るとは限らない。時には、当人が意識していない「本当の事」が奥に隠れている場合もあるだろう。

 大江その人に長いインタビューを試み、小説全集の全巻解説の仕事もなしとげた尾崎真理子が、今度は作品の行間に秘められた要素を大胆にあばき出す。「本当の事」という言葉から島崎藤村の文学作品の響きを聴きとり、『夜明け前』で言及される平田篤胤(あつたね)の国学、さらに柳田国男の民俗学との深い関連を、大江の作品から巧みにすくいあげている。

 実際に、故郷である愛媛県大瀬を原型にした山奥の村で物語が展開する、長篇(ちょうへん)『同時代ゲーム』を刊行したさい、大江自身も柳田への関心を明らかにしていた。西洋由来の文化人類学や文学理論をめぐる発言に比べると目立たないが、柳田の著作を読み、考えることを通じて、大江がある種の日本回帰を果たしていたことを尾崎は指摘する。ただし戦時中に流行した日本精神論への再没入ではなく、みずからの「根」となってきた、村の空間に広がる「魂」の世界を、言葉によって再現する試みだった。

 評者もまた、二十年ほど前に大瀬を訪れたことがある。山に囲まれた地域ではあるが、四国八十八ヶ所の巡礼の道が通っており、外との交通にも開かれた場所だと気がついた。

 江戸時代の村の生活、明治維新期の政治運動、昭和の戦争といった歴史の記憶が幾重にも重なり、森の中で人がさまざまなカミに出会う場所。そこに育った作家が、関心を外の世界へと際限なく広げ、世界中の人々の「魂」と響きあう文学を創りあげてゆく。そうした想像力の豊かな来歴を、この本は真摯(しんし)に跡づけている。

読売新聞
2022年12月23日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

読売新聞

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