『切り裂きジャックに殺されたのは誰か 5人の女性たちの語られざる人生 (原題)The Five』ハリー・ルーベンホールド著(青土社)

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『切り裂きジャックに殺されたのは誰か 5人の女性たちの語られざる人生 (原題)The Five』ハリー・ルーベンホールド著(青土社)

[レビュアー] 金子拓(歴史学者・東京大准教授)

19世紀 英貧困層の現実

 1888年の8月から11月にかけ、ロンドンのイースト・エンド、ホワイトチャペル地区において、立てつづけに5人の女性が殺害された。彼女たちの喉を切り裂き、内臓を取り出す残忍さを見せた連続殺人鬼は、俗に「切り裂きジャック」と呼ばれ、ロンドンの人びとを恐怖の淵に陥れた。殺人鬼の正体は誰なのか。様々な人物が取沙汰されたものの、いまだ明らかになっていない。それゆえ犯人探しの文献は跡を絶たず、いまなお多くの人びとの関心を引く事件として記憶に刻まれている。

 このとき犠牲となった女性たちは皆売春婦だとされていた。当時の捜査関係者がそれを前提とし、新聞もそう煽情的(せんじょうてき)に報じたためである。しかし著者は、5人のうち3人は「売春婦だったと示唆する確固たる証拠はない」と指摘する。そのうえで、被害者5人について、その生い立ちから人生の軌跡を丁寧に跡づけ、彼女たちの死に至るまでの道のりを可能なかぎり解き明かそうとした。

 富裕とは対極にある労働者階級に生まれた彼女たちだが、そのなかで懸命に働き、愛すべき家族に囲まれた人生を送るはずだった。ところが、父や伴侶を喪(うしな)ったり、彼らと別離した途端、女性一人の力で生活を続けることの困難さに直面する。貧窮の果て別の男性に頼り、暴力を受ける。浮浪生活者を収容する救貧院を渡り歩く。飲酒に身を委ねて厄介者扱いを受ける。

 彼女たちの人生を追う過程で剔抉(てっけつ)されるのは、19世紀末のイギリス下層社会の現実であり、その時代のなかで女性たちがおかれたあまりに不均衡な立場であった。この重苦しくもすぐれた社会史は、被害者一人一人の人生の断面を徹底的に見つめたからこそ生まれた。これを知ると、もはや殺人鬼が誰なのかなど二の次の問題に思えてしまう。時代と社会に歯車を狂わされ、汚名を着せられた彼女たちの鎮魂は、本書により果たされたのではなかろうか。篠儀直子訳。

読売新聞
2023年1月20日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

読売新聞

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