『シベリアのビートルズ』
書籍情報:openBD
『シベリアのビートルズ イルクーツクで暮らす』多田麻美著(亜紀書房)
[レビュアー] 小泉悠(安全保障研究者・東京大講師)
ロシア 強烈個性の面々
「シベリアと言えば?」。こう聞かれた多くの日本人の反応は、「寒そう」「暗そう」「怖そう」といったあたりになりがちではないかと思う。
だが、シベリアも人間の住む地であり、そうである以上は、通り一遍ではない人々の生活が存在する。本書は、シベリアのイルクーツクに住む女性が、その地に暮らす人々の姿を描いた群像劇的エッセイだ。
ソ連時代からビートルズに心奪われ続けてきた夫で画家のスラバ。乗り組んだ原子力潜水艦の中でビートルズを流行させ、艦内で「イエロー・サブマリン」をみんなで歌っていたというフッケル。詩人のプラホージーにパンクロッカーのドゥイム、イコン修復師のアンドレイ。
本書の前半ではこうした強烈な個性の持ち主が入れ替わり立ち替わり登場し、ステレオタイプなロシア人像を改めさせられること請け合いだ。とにかくみんな貧乏そうだが、同時にとにかく楽しそう。他方、酒を飲んだら止まらない、政府は信用できないという「いかにも」なエピソードにも本書はやはり事欠かない。
だが、本書で最も強烈なキャラクターは執筆者の多田麻美氏本人かもしれない。中国文学をバックグラウンドとしつつ、英語とロシア語も操ってどこにでも飛び込んでいく行動力には脱帽させられた。
2022年に始まった戦争も、本書の随所に影を落とす。戦争の是非を巡って分断される人間関係、黙り込む人々、世界から孤立していくことへの恐れや苛立(いらだ)ち、そして愛する音楽にまで及ぶ情報統制の波。戦時下ロシアの社会に関する報告としても、本書は読むことができるだろう。
シベリアはステレオタイプな「寒い、暗い、怖い」場所に戻ってしまうのだろうか。政治的にはそうなりつつあるのかもしれない。だが、庶民までそうはならないよ、と本書の登場人物たちはニヤリと笑っているような気もする。