「小説を書くのがつらい。苦痛で仕方がない」という状態に陥った作家・山下紘加を救った“山田詠美の言葉”

レビュー

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私のことだま漂流記

『私のことだま漂流記』

著者
山田, 詠美, 1959-
出版社
講談社
ISBN
9784065295915
価格
1,815円(税込)

書籍情報:openBD

「小説家」という生き物

[レビュアー] 山下紘加(作家)

 小説を書くのがつらい。苦痛で仕方がない。こんなことを周囲に漏らせば、じゃあ書かなければいい、と言われそうだが、そういう単純な問題でもないのだ。けれどその気持ちをうまく言葉にすることができなくて悶々としていた時に、本作を読み、山田詠美という作家の凄さを改めて再認識するとともに、読み終えた私は心の底から安心することができた。

 本作には、「私」がデビュー作を書き始めるまでに要した長い時間、そこにあった少女時代~青春時代、今日に至るまでのエピソード、心に留めておきたい言葉が凝縮されている。私はいちファンとして本書を読み進めながら、気が付けば同時に一人の小説家として、小説というもの、小説家というものについて見つめ直していた。当たり前だが、小説に正解はない。勉強のように教えられて理解するものでも、鍛練の末に習得できるものでもない。私もまた何年書いていても、いまだに安定しない足場の上でぐらつきながら筆を握っているような状態で、だからこそ、何十年にもわたって名作を書き続けてきた作家の経験に即した言葉の重みが肺腑にしみ、その「ことだま」に救われた。ここに刻まれた言葉の数々を、新人作家や、これから小説家を目指す多くの人々への激励のようにも受け取った。

「小説家のお手伝いさん」という章では、小説を書かせるのは、不幸な生い立ちでも悲劇的な体験でもなく、「心にへばり付いたそれらを、いちいち言語化して文字にする、愚直なまでの働き者の自分を心に住まわせ」ることだと語られる。デビューして七年、書き続けるのは頭で考えるよりずっと大変なことだと思い知った私は、自分がきわめて怠慢で悪質な雇用主であることに気づかされた。

 さらに、「小説家という性質(たち)」について語られる場面。そこにはこんな風につづられている。

「書くのが楽しくて仕方がない、と公言する作家がいる。すごい! と思う。私は全然楽しくないのだ。――では、何故、書くのか。そういう性質だからである。私は、職業作家であるが、同時に「小説家」という生き物なのである。」

 私は少し前に出演したトークイベントで「今が一番書くのが楽しい」などと口にしたが、その半月後には「今が一番書くのがつらい」状態に陥った。書けども書けども自分が納得する文章にたどり着けず、あまりにしんどくて、もう二度と書きたくないと思いながらも、いざその状態から解放されると、また書き始めている。本書にある、向き不向きでも好き嫌いでもなく、そういう「性質」だから、「小説家」という生き物だから小説を書いているという考え方に、救われる思いがした。

 十代の頃から数々の山田詠美作品を読み、物語を読む喜びも書く楽しさも小説から教わった。多くの気づきを与えてくれた本作もまた、私にとって大切な物語であるとともに、特別な指南書となった。

河出書房新社 文藝
2023年春季号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

河出書房新社

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