生き生きと描かれる明恵上人の「暖皮肉」

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あかあかや明恵

『あかあかや明恵』

著者
梓沢, 要, 1953-
出版社
新潮社
ISBN
9784103345367
価格
2,090円(税込)

書籍情報:openBD

生き生きと描かれる明恵上人の「暖皮肉」

[レビュアー] 田中寛洲(南禅寺管長/光雲寺住職)

田中寛洲・評「生き生きと描かれる明恵上人の「暖皮肉」」

 梓澤要さんは、先に『華の譜』で後水尾天皇の皇后である東福門院のご生涯を見事に描き切られた。東福門院は拙寺である大本山・南禅寺塔頭の光雲寺の中興開基と申し上げてもよいお方であり、ご宝髪や自筆の過去帳などが伝えられている。取材に来られて、どのような小説になるのかと心待ちにしていたところ、刊行された『華の譜』を一読して、よくここまで調べられたものだと感嘆した次第である。読まれた方々も異口同音に賛嘆しておられたのも当然であろう。そして東福門院の年忌法要に際して、講演をご依頼して遠方よりご来駕頂いたのである。

 その梓澤さんが、今度は栂尾の明恵上人のことを書かれたという。明恵上人と言えば、上人が開山である高山寺所蔵の国宝「樹上坐禅像」を思い浮かべる方も多いであろう。鎌倉時代は法然、栄西、親鸞、道元、日蓮、一遍などの新仏教が陸続として登場した時代である。その中で明恵上人が奈良の東大寺を本山とする旧仏教である華厳宗を離れることがなかったのは、一体何故であろうか。このことではなかろうか。上人は教団を結成してその棟梁に収まることなく、何人かの同行と共に仏法を行ずるべく日夜修行に励まれた持戒堅固な高僧である。余人にはなかなか伺い知れぬ高邁な境地の上人の生涯を小説として結実させるのは、おそらくかなりの難事かと思われる。

 梓澤さんはそこで、上人が六十歳で遷化されるまでの三十七年もの間、八歳の頃から従者として「一日も離れず身のまわりのお世話をしてきた」イサなる人物を作り上げられた。そうして明恵上人のお弟子で一番の古株であり、『明恵上人行状』という最も信頼できる資料を後世に残している義林房喜海をして次のようにイサに哀願させておられる、「のうイサさん、このなかでいちばん長く師のお側にいたのは、わたしより誰よりおまえさんだ。昼も夜も身近にいて、お言葉を聞き、われらの知らぬお姿も見てきたろう。話しておくれ。なんでもいいから、話しておくれ」。かくしてこの明恵上人に関する物語は、このイサの回想記という形で展開する。

『あかあかや明恵』という表題は、月の明るさと光の見事さを無心に詠んだ、「あかあかやあかあかあかやあかあかやあかあかあかやあかあかや月」という上人の最も有名な和歌から採られたものである。全体を拝読して自然に浮かんできたのは、「暖皮肉」という言葉である。これは「生の身体」という意味で、イサのように永年にわたり随侍したものでないと到底知りえない明恵上人の日常の姿が、全編を通して実にいきいきと描かれている。フィクションではないかという人があれば、それを否定するものではないが、しかしこうした手法によって生の明恵上人に肉迫する思いがするのは、私だけではあるまい。優れた作家というものはこれほどまでに構想力豊かに小説を書くことができるのかと感心させられる。

 明恵上人が釈迦如来の御遺誡をまともに受け取って右耳を切り落としたということは、史実として伝えられている。上人は自分が「釈尊滅後千五百余年、末法の世の辺土に生まれ、如来在世の衆会に遭えず、さとりの道に導かれる機を得られなんだ」とし、「滅後の形見」として残された「聖教」を学ぶことにより、如来のご本意を知る必要があるとして、仏典を学ぶことを非常に重視された。そして釈尊が禅定に入られてお悟りを開かれた例に倣い、熱心に坐禅に打ち込み禅定を修したが、色んな文献を読んで模索したものの、これという決定的なものに出会わなかったと言われる。華厳宗では坐禅弁道によりお悟り(見性)へと到る方途が確立されていなかったのであろう。

 明恵上人と新仏教との関わり合いについては、浄土宗開祖の法然上人を痛烈に批判した『摧邪輪』が有名であるが、禅宗との関係は、自分より三十歳以上も年長の栄西禅師に宋国の禅宗について学ぶべく、洛東建仁寺に出向かれたことである。上人は栄西禅師に幾度も参禅されたが、ついに禅に改宗することなく、華厳宗の僧侶に留まられた。聖教を尊重する上人と、「教外別伝、不立文字」を標榜する禅とは所詮相容れないものであったといえよう。

 禅の臨済宗南禅寺派に属する筆者としては、万事を放擲して坐禅工夫して大悟徹底し、禅を挙揚される明恵上人を拝見したかった気がするが、ともあれこのたび華厳宗の高僧である明恵上人の謹厳な日常が梓澤さんの見事な筆により生き生きと描かれたことは、まことに悦ばしいことで、一読をぜひお勧めする次第である。

新潮社 波
2023年2月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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