社会正義による「樋口毅宏の著作回収事件」を考える

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中野正彦の昭和九十二年

『中野正彦の昭和九十二年』

著者
樋口毅宏 [著]
出版社
イースト・プレス
ジャンル
文学/日本文学、小説・物語
ISBN
9784781621487
発売日
2022/12/19
価格
2,200円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

社会正義による「樋口毅宏の著作回収事件」を考える

[レビュアー] 栗原裕一郎(文芸評論家)

 予告どおり、樋口毅宏『中野正彦の昭和九十二年』(以下『中野正彦』)の回収事件について考えたい。意想外にも、石戸諭による論説「〈正論〉に消された物語」が『新潮』3月号に出たので参照しよう。

『中野正彦』は昨年12月17日に発売が予定されていたが、直前も直前16日に、版元であるイースト・プレスが回収を発表した。これだけでも異常な事態だが、輪を掛けて異常な光景がツイッターでは展開していた。

 担当編集者M(男性)の「見本できました。(中略)何事もなく書店に並びますように」というツイートに、同社の女性編集者Kが食ってかかったのだ。

 ヘイト本が自社から出されようとしているが、抗議しても担当編集者は聞く耳を持たない、「助けてください」と、MとLINEで交わした問答のスクショまで晒して訴えたのである。

『中野正彦』は、安倍晋三を「お父様」と崇拝するネトウヨ青年の日記の体裁で書かれたディストピア小説である。差別思想に凝り固まった人間の日記だから記述は当然ヘイトまみれだ。極端な思想の持ち主に憑依して内側から抉る企みであり、大江健三郎や筒井康隆など前例のある手法である。

 イースト・プレスは回収の理由に、社内承認プロセスの不備や契約書の未締結を挙げ、Kの言動は要因ではないと強調した。だが、Kの告発が15日、回収決定が16日という時系列を見れば鵜呑みにするのは難しい。石戸も同じ指摘をしている。

 石戸の論は入念なものだが、一点だけ異論がある。

 人々が「正しさ」を求めるあまり隣組的な「大衆的検閲」が蔓延りつつあるとする桐野夏生の危惧(『世界』2月号)を引き、『中野正彦』を指して「ついに日本でも現実の事例ができたのだ」と言うのだが、「大衆的検閲」はすでに幾度も発動している。昨年7月に取り上げた笙野頼子パージ事件もそうだし、『中野正彦』事件のすぐ前にも『「社会正義」はいつも正しい』(早川書房)がまさに「社会正義」によってキャンセルされかける一幕があった。

『中野正彦』をめぐる顛末は、一連の「社会正義的検閲」の動向に置いて見る必要がある。

新潮社 週刊新潮
2023年2月23日号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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