読むたびに発見がある 韓国文学異端の存在感

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読むたびに発見がある 韓国文学異端の存在感

[レビュアー] 佐久間文子(文芸ジャーナリスト)

 読みながら、これはいったいどういう小説なんだろうと途方に暮れた。にもかかわらず、いま自分はすごい作品を読んでいるという確信も深まっていく。近年紹介が進む韓国文学の主流ではないが、無視できない存在感を示す作家の初邦訳である。

 小説は三つのパートからなっている。「Ⅰ」に登場するのは「私」と「同行者」で、旅の途中らしいが、自分についての記憶がすべて失われている。二人はバスに乗り、会う約束をしていた巫女のもとに向かう。

 巫女に憑依した男の声で「私」の名前は「ウル」だと告げられる。二人は手のこんだ食事を供され、海に向かう。

「II」でも女の名前は「ウル」だが、場面は変わっており「I」とのつながりはない。コヨーテの檻で死んだ男と、コヨーテが同じ名前なのは何かの暗示か。「III」でも「ウル」という名前を持つ人物が出てくる。

 どこを切り取ってもそのまま詩になるような端正な文章が続き、宙づりのまま、不穏なイメージがふくらんでいく。三幅対のようなパートのそれぞれを独立したものとして読めば、それほど難解ではないのに、関連づけて読もうとするととたんに複雑に、難しくなる。三人の「ウル」はどういうかかわりなのか、一人の「ウル」の創作物、あるいは夢の中の存在か。

 深読みしたくなる言葉はいくつもちりばめられている。

 檻の中のコヨーテ。アンズタケを使った料理。映画監督のジョナス・メカス。海に浮かぶ船。結婚式の招待(状)。傷つけられた片方の耳。同じ言葉が異なるパートでくり返される。読み手の中では文脈が生まれ、補助線を引いて関係性や意味を見出したくなるが、正解は示されない。

 読み手ごとに、読むたびごとに、発見があり、違う作品として生成される。捕まえたと思うとその手をすり抜けていく、そんな小説だ。

新潮社 週刊新潮
2023年3月9日号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

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