心を鷲掴みにする圧倒的な迫力 望月諒子『野火の夜』

レビュー

  • シェア
  • ポスト
  • ブックマーク

野火の夜

『野火の夜』

著者
望月 諒子 [著]
出版社
新潮社
ジャンル
文学/日本文学、小説・物語
ISBN
9784103521921
発売日
2023/02/20
価格
2,090円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

心を鷲掴みにする圧倒的な迫力

[レビュアー] 大森望(翻訳家・評論家)

大森望・評「心を鷲掴みにする圧倒的な迫力」

 時は二〇二一年の夏。両替機から回収された紙幣の中に、血液で黒ずんだ大量の五千円札が見つかったことから、物語が動きはじめる。北関東のあちこちで発見されたこの五千円札に残る染みは、二十年以上経過した人血だと判明する。やがて、千葉県木更津市の道路脇に置かれたアダルト雑誌の自動販売機を起点に、間の抜けた事件が発生した。自販機前に白の高級車を停めて降りてきた男に警察官が近づいたところ、男は車に飛び乗って脱兎のごとく逃走。カーチェイスの挙げ句、車三台がからむ多重事故が起き、白の高級車はまんまと逃げおおせてしまったのである。

 血染めの五千円札は回収された分だけですでに総額二百万円にのぼる。両替しているのは誰か? 浸み込んだ大量の血に事件性はあるのか?

 数日後、池袋のビルとビルの隙間で中年男の死体が見つかる。男の身元は森本賢次、五十五歳と判明。その息子、森本恒夫こそ、血染めの五千円札を自販機で使おうとして逃げ出した男だった。紙幣は、死んだ父親がかつて連絡船の中で盗み、自宅に隠していた数千万円の一部だという。

 週刊フロンティアの看板記者でフリーライターの木部美智子は、五千円札の出所を追ううち、愛媛県南西部の由良半島で二十五年前に起きたある事件へとたどりつく。

 ……というわけで、望月諒子の書き下ろし長編『野火の夜』は、《木部美智子》シリーズの第六弾。二〇〇四年に『神の手』で開幕して以来、もう二十年近く続く、著者の看板シリーズだ。とりわけ、前作にあたる『蟻の棲み家』は、“ミステリー史上に燦然と輝くラストの大どんでん返し!”を大々的にフィーチャーした新潮文庫版が十三万部のスマッシュヒットとなり、昨年十二月には2022年啓文堂書店文庫大賞を受賞した。シリーズが熱い注目を浴びるなか、執筆に三年の歳月を費やしたという本書が満を持して刊行された恰好になる。複数の事件が複雑にからみあい、そのもつれた糸を木部美智子が解きほぐしていく構成は、本書も『蟻の棲み家』と変わらない。

 二十五年前の事件は、世間的には火災としか報道されていないが、実は一軒の家で二人の死者が出た殺人事件だったことを美智子はつきとめる。その現場で血に染まった例の五千円札は、地元にばらまくために用意された原発マネーだったのではないか。事件が封印されたのはなんらかの政治の力が働いたためかもしれない……。

 二十五年前の事件の真相を探る木部美智子の旅は、やがて時の流れを遡り、一九四五年の満州へと向かう。

 タイトルの“野火”は、二十五年前の事件の犯人とされ自殺した神崎元春の父親・安治が満州で見た野火に由来する。元春の妻だった女性は、安治がいかにも楽しげにこんな思い出話を聞かせてくれたことを覚えている。

〈遠くに漁火みたいなんが見えるのよ。地平線の向こうにな、煙が上がっとってな、昼も夜も向こうの方で、風に任せてゆらゆらと移動しとるのよ。それが突然やってくるんや。ゴーッと地を這う音がしてな。歩く火の巨人や。それで手当たり次第焼き尽くしていく。保管していた干草に火がついて風が巻き上がったら最後、もう消すことなんか出来ないんやで。消しに行って、何十人も焼け死んだ開拓団もあるそうや〉

 奉天(瀋陽)で終戦を迎え、愛媛村の開拓団と合流するため、ひたすら北に向かって歩きつづけた男・安治。彼がノートに書き記した作中の日記は、〈過去からの手が伸びてきて、美智子の顔面をがっちりとつかんでいるようだった〉と形容されるが、その生々しい描写は、満蒙開拓団の悲惨きわまりない運命とともに、圧倒的な迫力で読者の心も鷲掴みにする。先だって直木賞を受賞した小川哲『地図と拳』が描くのとはまるで違う満州が、どこまでも荒々しく厳しく美しく広がる。その途方もない広さと、終戦の日の意外な近さ(大阪万博のわずか二十五年前でしかない)とが、この架空の手記からつくづく実感される。

 極限状況の中で人はいかにして生きるのか。修羅の道を選ばざるを得なかった人間の限りない哀しみと痛みと勇気を望月諒子は赤裸々に描き出してゆく。それは必ずしも戦時中だけのことではない。

〈人は自分が理解するのに都合のいい事実を切り貼りして物語を作るけれど、切り捨てられた事実にも同じだけの価値と背景がある。それは見えない所に埋めても消えてなくなりはしない。そして時々化け物に化身する。/掘り起こして供養するのだ〉

 著者の分身でもある木部美智子はそう述懐するが、だとすればこれは、昭和平成令和の三つの時代にまたがる、満蒙開拓移民の始まりから百年近い歳月を供養する本でもある。満州で再会した三人の同郷人の運命と、男の子三人を描く一枚の小さな水彩画が、最後にしみじみと胸に染みる。

新潮社 波
2023年3月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

  • シェア
  • ポスト
  • ブックマーク