『伊藤仁斎 孔孟の真血脈を知る』澤井啓一著(ミネルヴァ書房)

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伊藤仁斎

『伊藤仁斎』

著者
澤井 啓一 [著]
出版社
ミネルヴァ書房
ジャンル
哲学・宗教・心理学/哲学
ISBN
9784623095025
発売日
2022/12/20
価格
4,400円(税込)

書籍情報:openBD

『伊藤仁斎 孔孟の真血脈を知る』澤井啓一著(ミネルヴァ書房)

[レビュアー] 苅部直(政治学者・東京大教授)

儒学を再解釈 思想の歩み

 今日、「実学」という名称は、そこで習った知識が社会生活に直接役立つ学問という意味で、さまざまな専門分野を区別するさいに使われている。この本の主人公である徳川時代の儒学者、伊藤仁斎もみずからの学問を「実学」と呼んだ。

 だがこの場合、「実学」にこもった意味は、現代のそれよりもずっと重い。対極にある「虚」なる学問・思想として仁斎が批判したのは仏教と老荘思想、そして東アジアにおける儒学の規範的な理論体系である朱子学であった。儒学の古典のテクストを読み直し、従来の解釈を徹底的に批判して、孔子と孟子の真意を再発見するとともに、それに照らして自分の日常生活を考える。そうした生きた思想の方法を「実学」と呼んでいた。

 伊藤仁斎の思想の画期性は、これまでも丸山眞男・吉川幸次郎・小林秀雄といった論者によって強調されてきた。しかしこの評伝で澤井啓一は、最新の研究動向をふまえながら、その思想家としての生涯と、その学問が「古義学」という名で知られ、著名になってゆく過程をくっきりと跡づけている。

 従来の研究において仁斎は、身近な道徳をめぐる議論に集中し、政治論は語らない思想家として扱われてきた。だが澤井は、豊臣秀吉による悪政の記憶がまだ生々しい時代の京都に、仁斎が育ったことに注意をうながす。その思想は、歴史における悪の存在にも目をむけ、統治者の責任を指摘するだけでなく、庶民もまた他者との関係を重んじる「実徳」を実践するべきだと説くものであった。

 さらに仁斎の思想形成を、明帝国や朝鮮王朝における朱子学・陽明学の展開との関連でとらえ直している。仁斎は、東アジア全体に広がる思想のネットワークのなかで、新たに輸入された書物を読み、望ましい修養のあり方や、「天」と人間との関係について、門下生たちとともに考え続けた。そうした共同探究が生み出した「古義学」の著作が、著者の没後も時代をこえて、人々の思考を触発する。その過程が、本書を読む人の営みを通じて、再び始動してゆくようである。

読売新聞
2023年3月10日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

読売新聞

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