『黄色い家』川上未映子著(中央公論新社)
[レビュアー] 辛島デイヴィッド(作家・翻訳家・早稲田大准教授)
犯罪染まった少女時代
魂が込められた600ページの長編を800字で評するなんて無理! 小説家の友人にそう嘆いてみると、「そもそも、この時代に何百ページも読者の心を掴(つか)み続けられること自体すごいことだよね」と言われた。全くその通りだと思う。本書は、久しぶりに最初から最後まで小説世界にどっぷり浸(つ)かりきる体験をさせてくれた。
ひとり静かに暮らす40歳の伊藤花は、ある事件の記事を目にしたことをきっかけに、若き頃の不思議な共同生活や事件を回想し始める。
貧しい家庭で育った花は、高校の途中から母の知人のスナックで働き始める。趣味もなく、恋愛にも興味がない。好きなことは、稼ぐこと。とにかく、心の不安を和らげ、その日暮らしを抜け出すために必死に働く。
責任感と行動力のある花は、企業で出世できるタイプだろう。だが、スタートラインや環境の違いはあまりにも厳しい。不運も重なり、似た境遇の仲間も巻き込みながら、徐々に犯罪に手を染めていく――。
なぜ僕は本作に強く惹(ひ)かれたのだろうか。もちろん、作品の舞台を身近に感じた面もあるだろう。1990年代文化へのノスタルジーもあるし、作中で活躍するような厳しい現実を生き抜く力を備えた女性に囲まれて育った。犯罪や事件を含め、作中の様々な出来事も、どれもスリリングだ。丁寧に描かれる登場人物も、作品を多声的にしている。でも、最終的には、僕の脳がジャックされたのは、それらがあまりにも誠実であるがゆえに、逆に信頼しきれない花の声を通して語られていたからではないかと思う。
著者の他の作品は数十か国で翻訳されている。世界中の読者が次作を待つなか作品を書くのがどのようなものか想像もつかない。が、無数の読者を前にして、心の奥底に眠る大切なものを掘り起こす他なかったのでは。
本書に読者として「滞在」したのは数時間だが、その記憶は自分の中に長く残るに違いない。