心理学はみんなのもの。みんなが持っている心を「わかる」ために補助線を引いてみる――臨床心理士・東畑開人さんインタビュー

インタビュー

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なんでも見つかる夜に、こころだけが見つからない

『なんでも見つかる夜に、こころだけが見つからない』

著者
東畑 開人 [著]
出版社
新潮社
ジャンル
文学/日本文学、評論、随筆、その他
ISBN
9784103544913
発売日
2022/03/16
価格
1,760円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

心理学はみんなのもの。みんなが持っている心を「わかる」ために補助線を引いてみる――臨床心理士・東畑開人さんインタビュー

[文] カドブン

取材・文:編集部

孤独な心に寄り添う著書が大きな話題を呼んでいる、臨床心理士の東畑開人さん。
カウンセリングルームでクライエントと1対1で向き合いながら、精力的に執筆もされ、5月からは「心のケア入門 支えることのための心理学」と題したセミナーも始められるという東畑さんの問題意識や目指すものについて、若手編集部員がお話を伺いました。

心理学はみんなのもの。みんなが持っている心を「わかる」ために補助線を引いて...
心理学はみんなのもの。みんなが持っている心を「わかる」ために補助線を引いて…

■心理学はみんなのもの。臨床心理士・東畑開人さんインタビュー

■カウンセリングの外側にあるケア

――近刊『聞く技術 聞いてもらう技術』の「新書大賞2023」5位ランクイン、おめでとうございます。この本はどのような読者に向けて書かれたものなのでしょうか。

東畑:ありがとうございます。『聞く技術 聞いてもらう技術』は、僕の本の中では一番、世間の人の役に立ちたいという思いで作ったものなんです。僕は心理学者なので、これまで専門家がどのようにセラピーやケアをしているのかということを書いてきましたが、専門家でなくても皆それぞれ、ご家庭や職場、地域の活動などで周りの人とケアし合いながら生きている。そういったことの助けになる本を書きたいと思ったんですね。

――これまでのご著書と比べて対象者が広がっているのですね。

東畑:新聞連載をしているなかで、地方や年齢も含めて、今まで見えていなかった読者がたくさんいらっしゃるんだな、と実感したんです。彼らに向けての本はこれまで書いていなかったので、そこに届いたらいいなと思ったんです。

――東畑さんは、カウンセリングルームのお仕事に加えて、執筆をされたり、以前は大学でも教えられていたりと、お仕事のフィールドを多数お持ちですが、それぞれの目的や目指すものに違いはあるのでしょうか。

東畑:中核にあるのはやっぱり臨床ですね。1対1の臨床というものが、僕の仕事すべての中核にあって、そこでどうしたら人の役に立てるのかなということをずっと考えているわけです。そこから学んだことを本に書いたり、どこかで教えたりしているので、臨床が基礎、ほかの仕事は応用と言えますね。

――では第一に目指しているものとしては、クライエントとして来られる方々の役に立ちたい、ということなのでしょうか。

東畑:目指しているというより、それが僕の職業ですね。だから時々、小説を書かないかと誘われたりもするのですが、餅は餅屋ですね。小説家ってレベル違いますからね。自分にできるのは結局心理学に関わることだけなので、自分の中核の仕事に集中していこうと思っています(笑)。

――小説を書いていただけないのは残念ですが、それはさておき、臨床が「基礎」だとして「応用」のお仕事の方にもまた、意義を見出していらっしゃるのかなとお見受けするのですが。

東畑:まず僕は心理士であると同時に心理学者でもあるというのはあります。自分のやっていること、心の治療とか、ケアとかって、一体なんなのだろうか、ってずっと考えてるんですね。なので、それについて書くことは臨床と並ぶもう一つの柱としてあって、これまでもそうした本を書いてきました。
 一方で『聞く技術 聞いてもらう技術』は、「お裾分け」という表現が適切かどうかわかりませんが、そのような感覚ですね。臨床において、クライエントたちが回復していくのはカウンセリングの中でどうこうするだけで可能になるものじゃないんですね。日常生活の中で、周りにケアする人が現れてきて、ということが断然大きい。ですから、周囲からケアを得るにはどうしたらいいかということをカウンセリングの中でアドバイスしたり、話し合ったりしているので、そういう技術を一般の方にも使ってもらえたらという思いがありました。

――なるほど。カウンセリングの「外側」を強化していくことが、そのクライエントを助けることにもなるし、カウンセリングの場にたどり着いていない方にとってもヒントになるかもしれないということですね。

東畑:たぶんそうなんだと思います。

■自分自身と重ねて学ぶのが臨床心理学

――昨年は「臨床心理学入門」というセミナーを開催されていましたね。これは心理職の方に向けたものでしたでしょうか。

東畑:いえ、あれは教養講座のようなものです。僕は大学で学部の学生を教えていて、初めて臨床心理学に触れる学生たちに向けて授業をしていたんですが、つまらないと学生が寝ちゃうんですよ。みんな寝ちゃったことがあって(笑)、それから授業はおもしろくないといけないんだという意識を強く持ちました。本当に死にたくなるんですよ、虚空に向かって喋ってる感じがしちゃって。
 大学を辞める時に、せっかくだから大学で教えていたことを一般向けにやってみようと思って始めたのが、昨年の「臨床心理学入門」です。なので、どちらかというと理論編といった内容で、臨床心理学をよく知らない人が教養として、臨床心理学っておもしろいなと思ってくれたらいいなというのが目標でした。理論編なので、実際にどういうふうに人をケアするのかという「実践」の部分は話していなかったんですよね。今年開講する「心のケア入門」では、その省いていたところをまとめて話そうかなと思っています。

――昨年やってみて、手ごたえはいかがでしたか? 受講者に響いた実感はありますか。

東畑:感想とかを見ていて、臨床心理学ってふつうに役に立つんだなと意外に思いましたね。
 臨床心理学のいいところって、自分の身の回りのことや、自分自身のこと、性格や悩みなんかを思い出しながら聞けるところなんでしょうね。そうやって自分を重ねながら聞くことで、少し違った視点をもらうといったことがあったみたいです。思い返してみると僕自身、大学で臨床心理学の授業を受けている時に、そういうふうに聞いていましたね。やっぱり俺は超自我がおかしいんだ、とか(笑)。臨床心理学というのは根本的に、そういうものなんじゃないでしょうか。

――小説も同じかなと感じました。私自身、つい自分に重ねながら読んでしまいますし、読者の感想やファンレターなどを見ても、私もこんな経験をしていて……と滔々と言葉があふれ出るような「自分語り」タイプのものがよくあるのですが、それこそが読者に響いた物語であることの表れなのかなと思っていまして。

東畑:そうだと思います。つまり誰かの物語が自分の物語を引っ張り出してくるということですよね。物語が物語を呼ぶ、それを引き起こすのが善き物語なんだろうなと思います。
 そもそも臨床心理学というのは、クライエントたちの治療をするなかで、物語られたことを抽象化・理論化して骨だけ残したようなもので、自分の人生で肉付けして聞くことで理論が彩りを持つ。小説にはもともと皮膚や肉がついているから美味しいですが、臨床心理学は骨だけなのでそのままでは美味しくない。それを補うのが教師の仕事で、さらに生徒が自分で皮膚をかぶせることでようやく美味しくなる学問なんだろうと思いますね。

――『なんでも見つかる夜に、こころだけが見つからない』を拝読した際、まさに物語が物語を呼ぶということを実感しました。ミキさんとタツヤさんという人物の物語があるからこそ胸に落ちてくる感覚があり、自然と自分に重ねて読んでいました。
骨だけをポンと与えられると難しい、ハードルが高いと感じてしまいそうですが、東畑さんの授業のなかで語られる時にはきっと皮膚や肉をつける手助けが一緒にあるからおもしろいのでしょうね。

東畑:その手助けというのは譬え話ですよね。
 こう言ってはなんですが、臨床心理学の教科書って案外つまらない(笑)。別に書いている人の力量の問題ではなくて、本質的に、骨だけ与えられても魅力的ではない。でも臨床をやり始めると、教科書に書いてあるのはこういうことだったんだっておもしろく感じるようになるんですよ。臨床経験があるから、骨から風景が立ち上がってくるようになる。
 せっかく僕は臨床をやっているので、譬え話を入れておしゃべりすることで、聞き手にも風景が浮かぶようになってくれればと思います。それが授業をする意味なんだろうなと。それがなかったらボーカロイドに教科書を読ませておけばいいという話になります。手を変え品を変え、多様な譬え話をするために、たくさんの先生がいるとも言えるんじゃないでしょうか。

――先生によって譬え方が違いますもんね。心理学に限らず、私は教科書がおもしろいと思ったことがあまりないのですが、つまらなくてこそ教科書かと安心しました(笑)。

東畑:譬え話を削るのが教科書の役目なんでしょうね。いっぱい譬え話が入っている教科書はアクが強すぎて、みんなの教科書にならないということなのかもしれない。つまらないほど、良くできている。それが教科書の本質であって、執筆者のせいではないと僕は心の底から思っています(笑)。

■「支えることのための心理学」

――今年開講される新しいセミナー「心のケア入門」について伺っていきたいと思います。「支えることのための心理学」というサブタイトルを付けられていますが、これはどういう意味なのでしょうか。

東畑:基本的な発想として、僕らは日々支え合っていると思うんです。「支え合う」というとお行儀よく聞こえるかもしれませんが、僕らは日常的に生じ続けるいろんな嫌なことを、周りの人たちに愚痴ったり、代わりにやってもらったりしながら、なんとか処理して生きているものですよね。支えたり支えられたりというのは、人間のデフォルト。
 でも、「支えること」はしばしば機能不全に陥る。僕が臨床で出会っているのはそういう事態です。支えてくれているものがあったのに、それが失われ、困難になってしまった時に専門家のところに人が来るのだと思います。機能不全になった「支えること」をもう一度動かし直すのが心理士の仕事なんだと思うんですよね。
 個人の中のものを治療する、変化させるというのももちろん僕らの仕事の重要な部分ですが、でも「支えてもらえるようになること」が一番パワフルだと思うので、「支えること」は一体いかにして可能になるのか、あるいはなぜ支えること・支えられることができなくなってしまうのか、そういったことを一般の方にも考えてもらうきっかけになればと、そんな意味を込めています。

――私はそんなに人のことを支えていないけれど、とはじめは思ったのですが、言われてみれば、私たちの日常は支えること・支えられることに満ちていますね。

東畑:結構支えているんですよ、みんな。しかしこれが、見えないんです。当たり前すぎて見失っていたり、大したことしてませんよ、と謙遜してしまったり。
 僕はカウンセリングの中で、クライエントに対して「それはすごく支えになっていると思いますよ」というようなことをよく言っている気がします。人に言われないと自覚できないけれど、実際は雑草のように繫茂しているのが、支えること。だから雑草に名前を与えるような仕事でもありますね。

――クライエントに対して「支えている」と声をかけられるんですね。「支えられること」を求めて来られているイメージだったので、意外でした。

東畑:今イメージしていたのは、お子さんや配偶者、パートナーのことで悩んで来られている方が、自分は子供やパートナーのことを支えられてないとか、ただ傷つけるだけだとか思いやすいということです。傷つけている部分もあるかもしれないけれど、案外支えになっていると思うよ、って。子供の方はそれをさり気なく認めているのに、本人の罪悪感が強くなっているせいで、聞こえなくなってしまっていることもある。

■ケアの入り口は「わかる」こと

――そう考えると、支えることとは循環ですね。どちらか一方が支えている・支えられているのではなく、自分が誰かを支えていると認識することが自分自身の支えになる。

東畑:その通りで、ケアは網の目のように重なり合うもの。波と波が重なっているみたいなことじゃないですかね。

――確かに、自分が誰かを支えているかもしれないと思うことで、自分の存在価値を見出せるような気がします。

東畑:そうなんですよ。やっぱり人間は支えるのが好きなはずですよ。

――本質的にはそのはずなのに、それがなぜか、見えない時がある。それが「雨の日」の入り口ということでしょうか。セミナーの案内チラシにある「晴れの日にはケアはありふれているけど、雨の日にはケアはきわめて難しくなってしまう」という言葉が印象的でした。

東畑:普段は支えるということが呼吸するように自然に行われているけれど、ある時よくわからなくなっちゃうんですよ。
 例えば子供が学校に行かなくなる、あるいは突然パートナーが怒りっぽくなる、その時にどう接したらいいのか。今まで普通に支えたり支えられたりしたはずの相手が、わからない人になってしまった時に、僕らは混乱しちゃうわけですよね。
 重要なのは、相手のことが「わかる」ことだと思うんです。学校に行かなくなった子供が、夜にはランドセルの中にいっぱい教科書を入れて準備しているのに、朝になると身動き一つ取らなくなっちゃう。夜は何だったの?と親御さんは思って、わからないからイライラしてしまうけれど、絶対行かなきゃと思っているその子もいるし、どうしても行けないと思っているその子もいる。心の中には二つの声があることが見えてくると、行きたい部分を認めながら行きたくない部分にも配慮できる、というように接し方が変わってくる。
 どうケアしたらいいのかと、みんな技術を聞きたがるんですが、わかることからおのずと技術が出てくる。技術といっても普通のことです。しばらくそっとしておくとか、励ましてみるとか。励ましてはいけないのか、と聞かれることもありますが、励ましていい時もあれば悪い時もあるに決まっているわけですよ。相手の状態がわかっていれば、今はちょっと励ましてもいいかなと思える。まずわかること、それが今回の問題設定ですね。

――わかるための基礎知識というか、ちょっとした専門知が共有されていれば、ケアの仕方が違ってくるだろうということですね。

東畑:そうですね。1本補助線が入ると、その人のことを少し理解することができる。体の治療の場合は、ものすごい専門知がないと、どれが癌細胞でどれがそうでないのか見分けがつかないじゃないですか。でも心はみんなが持っているから、基本的にはみんな、心のことをよく知っているはずなんです。時々わからなくなってしまうけれど、そこに補助線が1本入ると、わからなかったものが身近なものへと変わっていく。それが心のケアと体のケアの違いなんじゃないかなと思います。
 心はみんなが持っているというのがポイント。自分の心があるし、周りにもいっぱい心があるから、心のことはみんな結構よく知っているんですよ。

――それぞれ体当たりで経験してきたものがありますもんね。だからこそ先入観を持ちがちなのかもしれないとも思いますが。

東畑:そうそう、でもそれがスタートで、そこに1本補助線が入ると自分の持っていた先入観に気づけるということではないかと思います。

――その補助線の入れ方が、特にどんな方に共有されるといいと思いますか。

東畑:やっぱり周りの人のケアをする人たちかなと思います。部下とか、ご家族とか、誰かのことを心配している人たちですね。誰かが調子悪くなったら心配するというのが人間の生き様で、そこで役に立てればと思うので。それから、あとは、自分のことを心配している人ですね。というと、全人類となってしまうな(笑)

■カウンセラーに若き天才はいない

――自分の心配、わかります。誰かを気にかけている、心配することができている時点で、自分に余裕がある状態なのかなと感じていました。なにかと余裕のない世の中で、自分自身の心の危機を感じていて、だからこそ心のケアを学びたいという方も多いでしょうね。

東畑:さきほどの体の治療と心の治療の対比で言うと、体の治療の場合、自分が癌になっていなくても癌の治療はできる。あるいは、自分がウイルスに感染していなくても、そのウイルスの治療はできるんです。それは客観的に学ぶことができる。
 でも、心の臨床の世界では、クライエントと丸ごと同じ経験をしているということはないけれど、自分自身が経験してきた苦しみと、そこからどう回復してきたかという実感によって、教科書に書いてあることが我が物になっていくというメカニズムがあると思うんですよね。完全に客観的な学習はできなくて、自分がどう病んだり、癒やされたり、回復したりしたかといったことが学びの上で大事なのではないかと。
 だから例えば、大学生の時に精神病理についての授業を聞くと、すべての病気を自分が抱えている気がしてくる、俺は○○障害だなとか。そうやって学ばれていく学問なので、自分のことに対する心配や、自分がどう解決するかといった関心で心のケアを学ぶというのは、むしろ正統派だと思います。それ抜きで学べないですよね。ただ、もちろん人生経験だけでも心の臨床はできないのも事実なんですけどね。それだと独りよがりになって、ときに暴力的になってしまう。人はそれぞれに違うところもあるし、同じところもある。だから、専門知と経験の両方が必要なのだと思います。

――それ抜きで学べないというのは感覚的にわかる気がします。逆に、心のケアについて学ぶ必要性を特に感じていなかったのに、東畑さんの本を読んでみたら自分の経験に大きく重なって、これは自分にすごく必要なものだったじゃないかと気が付いたということもありました。

東畑:カウンセラーや精神科医に若き天才っていないんです。20歳の天才数学者はいるけれど、天才的な臨床心理学者や臨床心理士はいたことがないし、これからも出ないんですよ。
 やっぱりある程度人生経験を積んで、苦しんだり、苦しかったと自分でわかったり、病んで回復したりするということを、誰しも中年になるまでに経験するじゃないですか。そういう経験が必要なんだと僕は思います。

――編集者も同じかもしれません。私はまだ若手で、こんなに若くては人の話をきちんと聞けない、申し訳ない、と仕事をしながら思ってしまうことがあって。小説も自分の経験を重ね合わせながら読むものだと思うので、企画力などは別にして、読む力という意味では、若き天才がいないというのは編集者にも同じことが言えるかなと思いました。

東畑:とてもいい話ですね。小説家には若き天才がいるんですよね。三島由紀夫とかラディゲとか、書く方には10代の天才もいるけれど、読む方はある程度、経験が必要な面がありますよね。ケアする側は、やはりいろいろな物語を知っていること、いろいろな体験をしていることが役に立つんでしょう。そういう経験が必要な、時間がかかる仕事なんでしょうね、編集者も、心理士も。年を取るのが喜ばしい仕事ですよね。

――いつも、早く年を取りたいと思っています。

東畑:それは僕もずっと思っていた。心理士をやりながら、中年の人すごいなあってずっと思っていたし。やっと中年になれてよかったです。

■調子が悪い時ほど、学ぶ力は上がっている

――ひとつ前の話に戻りますと、周りの人を心配している人に限らず、自分自身が心の危機にあるのかもしれないと思ったら、それが学ぶきっかけとしては十分かもしれませんね。

東畑:そういうことだと思いますよ。そもそも何かを学ぶというのは調子が悪い時というか、ちょっと調子悪いなという時ほど学ぶ力が上がっているような気がします。

――最後にあらためて、心理士・心理職以外の人が心理学を学ぶことの意味や効用を伺えますか。

東畑:これは現代のトレンドな気がしますね。他者のことがわかりにくくなっている時代だと思うんですよ。お互いのプライバシーをよく知らない社会だし、家族であったとしても外で何をしているかよくわからない。心理学はもともと、そういう時代に生まれてきているんですよね。村社会から都市社会になっていくなかで出てきている学問です。
 根本的に、心理学って専門家だけが使うものではないと思うんですよ。生物学などは専門家が使っていればいいけれど、心理学はやはりみんなのもの。心はみんなにありますから。それが心理学の特徴で、孤独になりやすい社会、他者のことがわかりにくくなる社会だから、メディアでも心理学の知識が発信されたり、学校でも道徳の授業などで教えられたりしている。もちろん、心理学化する社会はよくないといった批判もあるのですが、しょうがないところもあると思うんですよ。自由と孤独。これはバーターになっていて、社会はもう一度村社会には戻れないので、そこで生じる対処として心理学があるんじゃないかと個人的には思っています。

――確かに、必要だからある、というシンプルなことなのかなと思いました。みんなそれぞれ孤独を感じる時はあるし。助けてほしい時も、人が心配な時もあるわけで。

東畑:そうそう。昔だったら心理学なんかなくても、いろんなお節介を画策できたんじゃないですか? 近所の人の状況もわかっているから、米を届けるとかね。江戸時代にはそうしたのかもしれない。でもだんだんそうも言っていられなくなってきて、いまや相手のことがわからない。あるいは、自分のこともわからない。
 その「わからない」に心理学で補助線を入れると、ちょっとわかって、理解したり受け止めたり、支えたりすることができる。そういう構図なんじゃないかなと思っています。

*「心のケア入門」、リアルタイム受講チケットは定員に達したが、アーカイブ視聴チケットでの受講は可とのこと。
https://stc-seminar002.peatix.com/

■プロフィール

■東畑 開人(白金高輪カウンセリングルーム主宰)

1983年生まれ。臨床心理士・公認心理師。京都大学大学院教育学研究科博士後期課程修了。博士(教育学)。著書に『野の医者は笑う―心の治療とは何か』(誠信書房)、『日本のありふれた心理療法―ローカルな日常臨床のための心理学と医療人類学』(誠信書房)『心はどこへ消えた?』(文藝春秋)など。2019年、『居るのはつらいよ』(医学書院)で大佛次郎論壇賞、紀伊國屋じんぶん大賞受賞。最新刊は『聞く技術 聞いてもらう技術』(ちくま新書)。

KADOKAWA カドブン
2023年03月22日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

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