青春の“後”の日々の暮らしには、何があって何がないのか。 10年ぶりのエッセイ集『月と散文』刊行記念 又吉直樹インタビュー

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青春の“後”の日々の暮らしには、何があって何がないのか。 10年ぶりのエッセイ集『月と散文』刊行記念 又吉直樹インタビュー

[文] カドブン

取材・文:橋本倫史
撮影:三宅勝士

18歳で芸人になるために上京してからの苦い青春を描いた『東京百景』から10年。又吉直樹がエッセイ集『月と散文』を刊行した。その10年の間に又吉は、芸人として世に出て、さらには芥川賞を受賞。かつて夢見た生活を手に入れたが、一方で失ったものも大きく……。そんな青春の続きの人生を、時にセンチメンタルに、ナイーブに綴った又吉直樹が今、何を考えているか胸の内を語ってもらった。

■エッセイ集『月と散文』刊行記念
又吉直樹インタビュー

青春の“後”の日々の暮らしには、何があって何がないのか。 10年ぶりのエッ...
青春の“後”の日々の暮らしには、何があって何がないのか。 10年ぶりのエッ…

■小説ですか、エッセイですか?と問われたら、散文です

――『月と散文』というタイトルですが、又吉さんはこれまで「月が好きだ」という話はよくされていました。それに続く言葉として、エッセイでも小説でもコラムでもなく、「散文」という言葉を選ばれたのはなぜですか?

又吉:最初に本を読み始める時って、ジャンルとか分からずに読み始めるじゃないですか。僕が子供の頃に私小説を読んだ時も「作家が実際に体験したことを書いているんや」と思ってたんですけど、後になって「ああ、そういうわけでもないんや?」と気づいたんです。

――「私小説」というのは、作家の実体験が綴られているわけではなくて、作家が自身の経験をもとに綴った創作だ、と。

又吉:自分の体験を文章に書こうとした時に、事実に沿ったものを実名で書いていくと、どこかでバランスを取ろうとしたり、誰かに気を遣って内容を変えたりしてしまうわけですよね。それよりも、私小説というフィクションにするから、より本当のことが書ける。虚構の世界で本当のことを書くから、より真実に近づけるジャンルが私小説やと思うんです。僕が最初に読んでいたのはそういう私小説やったんで、次にエッセイと呼ばれるものを読んだ時、そんなに違いが分からなかったんですよね。特に近代文学の作家が書く短編小説は、エッセイにかなり近くて。

――作家が目にした情景をもとに描いた、エッセイに限りなく近い短編というのも多いですね。

又吉:僕はそういう短編小説が好きやったんですよね。ふざけ倒して書くよりも、書き手は真剣であって欲しい、というか。本人が真剣にむかついたり真剣に喜んだりしている文章だったら、それを読者として読んだ時、「この人、面白いな」とか「変な考え方やな」と思える。そこに本当の笑いがある気がしたんですよね。「こういうふうに書いたら笑えるでしょう?」みたいな感じで書かれても、「そんな小手先のテクニックはいらんかな」と思えてしまう、というか。

――又吉さんにとっては、それがエッセイかコラムか小説かというよりも、書き手が本気だというところが重要だったわけですね。

又吉:そうですね。コラムらしいコラムというものも、あるとは思うんです。問題提起があって、それに対する書き手なりの回答がある――そういう文章が好きだという人が、コラムというジャンルの文章を探して読んで、「読みたかった文章に出会えた」と思うことはあると思うんです。あるいは、もっと書き手の身辺のことを書いたものを読みたい人が、「エッセイ」という言葉を目印に本を探すことはあると思うんです。でも、僕が最初に読んだのは私小説だったんで、そういうジャンル分けが難しいものだったんですよね。だから、自分が文章を書くようになった時にも、小説もエッセイもコラムも、そんな大きい違いはなかったというか。

――そういう細かいジャンル分けよりも、全てを包括する「散文」という言葉がしっくりきたわけですね。

又吉:エッセイらしい文章を書くこともできるんですけど、芸人で言う「漫才コント」みたいになってくるんですよね。小説と言えば小説やし、エッセイと言えばエッセイやし、虚構と言えば虚構やけど現実っちゃ現実みたいな文章もありうるじゃないですか。どれにも規定したくないとなると、「散文」って言葉がすごく便利なんですよね。しかも、ジャンルを広げたようでいて、その全てが同居しているようなものだという意味では、逆に絞れてるような気もするんです。「芸人ですか、作家ですか?」と問われた時に「人間です」と答えるのと同じように、「小説ですか、エッセイですか?」と問われたら「散文です」と。

青春の“後”の日々の暮らしには、何があって何がないのか。 10年ぶりのエッ...
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■文学者の中に排他的な思想を持っている人がいたっていうことに動揺した

――『月と散文』の中で又吉さんは、「思春期の頃、人との会話を通して最も僕が快楽を感じるのは、知らないことに気づけた瞬間であり、誰かから新しい価値観や視点を与えられる瞬間だった」と書かれています。これは本を読む楽しみとも重なる話ですね。

又吉:その楽しみというのは、本の中にはより凝縮されてる気がします。人と何時間もしゃべっている時に、知らないことに気づけた瞬間が一瞬あるだけでも面白いんですけど、本の場合、誰かが時間をかけて考え抜いたものが濃度の高い状態で書かれている。本を読むことで、そういうものに出会えることがあるので、自分が散文に惹かれていったのは必然かなと思います。

――本書に書かれているように、又吉さんにとって「古書店は特別な場所だった」し、「文学に幻想を抱いていた」んですね。だからこそ、「火花」が芥川賞を受賞した後の反響に失望したわけですね。

又吉:20代の頃は一日に何軒も古書店をはしごしてたんです。古書店と自動販売機だけが自分を何者かにしてくれる場所だと思ってたし、本に裏切られたこともなかったんですよね。だから、「火花」で芥川賞を受賞した後、一部の文学者から「芸人が小説を書いた」という文脈だけで語られたことに驚いたんです。文学者の中に排他的な思想を持っている人がいたっていうことに動揺した、というか。そんな人は一部に過ぎないにしても、書店が恐ろしくなったところがあって。

――その文章のタイトルにもなっている、「あの頃のようには本を愛せなくなってしまった」という言葉はショッキングでした。

又吉:当初は、「あの頃のようには本を愛せなくなってしまった」というところで話が終わってしまっていたんです。でも読み返した時に、そこで終わるのはやっぱり寂しいなと思って、「本当にあの頃のようには愛せないのか?」と自問するところを書き足しました。

――その文章に限らず、今この時代に用いられている「言葉」の粗雑さや、誰かの行動に制限をかけてしまうような呪いの言葉に対する憤りというのも、随所に書かれていますね。

又吉:今はもう、揚げ足の取り合いみたいな言葉も多い気がするんですよね。言葉遊びに終始して、物事の本質を無視したようなやり取りに溢れていて、それはほんまに無駄やなと思うんです。そういうやり取りに対して、「それ、無駄やで」って反応してしまうことで、僕もそれに参戦してしまっているのかもしれないんですけど。ただ単に意地悪な言葉が「面白い」と持ち上げられたり、「優しい」という言葉が急に価値を持ち始めたり――そこにはもともと面白さや価値があるはずなのに、流行によってその価値が高まったり低くなったりしている気がするんです。そこにあんまり翻弄されたくないんですよね。

――『月と散文』を読むと、又吉さんが今の時代に対して抱えている絶望が伝わってくるのと同時に、それでも諦めずに生きていくというかすかな意志を感じたんです。文章を書いて誰かに何かを伝えようとすることで、かろうじて生き延びている人の気配が伝わってくる、というか。

又吉:僕自身、本を読んで気づいたことがたくさんあるんですよね。今も本を読む側でもあるんですけど、書く側に回って――。別に自分がいろんな小説を読んで体験したような大きなことを、今度は僕が読者に与えたいと思っているわけではないんですよ。「ただただ楽しんでもらえたらいいな」というのが正直な気持ちなんですけど、たまに感想をもらうことがあるんです。

――感想?

又吉:先日、撮影をしていたら女性が声をかけてくれて、「うちの中3の息子は本が好きで、又吉さんの『劇場』をずっと枕元に置いてるんです」と伝えてくれたんです。「息子は『この文章が一番好きだ』って言って、読み返し過ぎてボロボロになって、最近2冊目も買って――それだけ伝えたかったんです」って。それがすごい嬉しかったんです。読書に年齢は関係ないとは思うんですけど、中3の頃の自分は、あの小説を楽しめたかなと考えたんですよね。僕が書いた小説に対して、僕以上に何かを感じ取ってくれる人がいるんじゃないか、って。その彼と僕は、本がなければつながることはできなかったんで。うん、だから、やっぱり本というのは必要ですね。

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■「次の世代に」って気持ちもどこかにあったのかもしれない

――最後に、本の装丁や造本についてもうかがいたいと思います。この『月と散文』は、通常版の他に、数量限定の特装版も作られています。この特装版を出そうという話は、どんな経緯で決まったんでしょう?

又吉:編集者とやり取りしていた時に、「今の時代にはなかなか作れないような、こだわりの詰まった本を作ることに興味はありますか?」と聞かれたんです。もともと古書が好きで古書店に通っていて、本そのものもすごく好きだったから、「もちろん興味あります」と答えたんですよね。そこから皆で装丁が恰好良い本を持ち寄って、ディスカッションが始まったんです。僕も自分が持っている函入りの本を持っていって、「ここが恰好良い」という話し合いを重ねていったんです。

――本体の題箋貼りや、ビロード調の素材、あえて不揃いな質感を醸し出す天と小口アンカット、開きのよさが味わえる糸かがり綴じや函への箔押しと、現在の出版業界ではほとんど見られなくなりつつある技術も詰め込まれた、かなり豪華な本に仕上がったそうですね。

又吉:通常版の装画は松本大洋さんが描いてくださって、「通常版」という言葉がふさわしくないぐらい恰好良いものに仕上がってるんですけど、昔の函入りの本には今の本にはない恰好良さがあると思うんですよね。現代の作家も皆頑張っているのに、本そのものとして恰好良くて持っておきたいと思えるものは、昔の本の方が圧倒的に多いんですよね。そのビジュアルに耐えうるような文章じゃないと駄目なんでしょうけど、もしも機会があるなら、本そのものとして恰好良いと思えるものを作りたいなと思ったんです。

――又吉さんが小説を書いた時、「芸人が小説を書いた」という文脈で切り取られたり、太宰治が好きだと言えば「文学好きを気取っている」と言われたり、心ない言葉を向けられることも多かったと思うんです。それと同じように、ここまで豪華な特装版を作ることに対して、「文学好きを気取っている」と言われる可能性があるだろうなということは、又吉さん自身も想定されているんだろうなと思うんですよね。それでも特装版を制作したというところに、強い意志を感じたんです。

又吉:ストレートに言うと、「やりたいからやる」ということですかね。結局全てはそこに帰結する気がします。もう昔からずっと、「ほんとに太宰読んでんのか?」とか、「文学好きを気取るな」とか、散々言われてきたんです。特に20代の頃だと、「嘘つけ、かっこつけんな」という反応をする人も多かったんですけど、「20代で、芸人で、それで太宰読んでるなんて、面白いね」と笑ってくれる人もいたんですよね。どっちが好きかなと考えたら、やっぱり笑ってくれる人の方が好きやな、と。「文学好きを気取るな」とか言ってくる人は、おもんない人が多いなと僕は感じているんです。

――表現者として、どちらの声に向き合うべきか、と。

又吉:どっちかというと、笑ってくれる人と向き合った方がいいかなと思うんです。怒られないように、怒られないようにって立ち回る必要はないですし、もうそこはあんまり気にせえへんっていう感じになってきましたね。誰かに対してずっと毒を吐いている人もいるでしょうし、誰かがやることに対して「まあ、人それぞれやからええんちゃう?」って笑うことができない人もおるかもしれないから、全部の反応に腹立ててもしょうがないかな、と。今回この特装版を作ったことで、5年後、10年後に「自分も恰好良い本が作りたい」と思った時に、この本を通じてアクセスできるわけじゃないですか。今回、印刷会社の皆さんも協力してくださって、昔の本の作り方を研究して、実験を繰り返して、この特装版を完成させることができたんです。もしこういう本を作りたいという人が現れたら、そのノウハウはできたので、そういう意味でも作ってよかったなと思うんですよね。

――今回の本は、10年ぶりに出版された散文集でもあります。10年前に『東京百景』を出版された時は33歳でしたが、今は40代になって、次の世代に何かを手渡していくという意識も芽生えてきたんでしょうか?

又吉:「次の世代に」って意識はまだないんですけど、脈々と続いてきたものはあると思うんですよね。その流れに自分も完全に入りたいと思っているわけじゃなくて、そこからはみ出すような活動をしていきたいなと思うんですけど、なくなってはいけない流れはあると思うんです。できることなら本は紙で読みたいと思うので、恰好良くて、中身も面白い本がある――そういう流れは続いていってほしいな、と。今回この特装版を作っておいたことで、「ああ、こういう函に入っている本って、辞書以外にもあるんや?」と気づく人も増えてくると思うんです。「コストはかかるけど、やろうと思ったら作れるんや」と。そういう意味では――そうですね、もしかしたら「次の世代に」って気持ちもどこかにあったのかもしれないですね。

■プロフィール

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■又吉直樹

1980年大阪府寝屋川市生まれ。芸人。99年に上京し吉本興業の養成所に入り、2000年デビュー。03年に綾部祐二と「ピース」を結成。現在、執筆活動にくわえ、テレビやラジオ出演、YouTubeチャンネル『渦』での動画配信など多岐にわたって活躍中。またオフィシャルコミュニティ『月と散文』では書き下ろしの作品を週3回配信している。著書に、小説作品として『火花』『劇場』『人間』が、エッセイ集として『第2図書係補佐』『東京百景』などがある。
https://www.tsukitosanbun.com/

KADOKAWA カドブン
2023年03月27日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

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