【本棚を探索】『わが殿』畠中 恵 著、文春文庫 刊

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わが殿 上

『わが殿 上』

著者
畠中 恵 [著]
出版社
文藝春秋
ジャンル
文学/日本文学、小説・物語
ISBN
9784163911281
発売日
2019/11/27
価格
1,540円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

【本棚を探索】『わが殿』畠中 恵 著、文春文庫 刊

[レビュアー] 大矢博子(書評家)

黒字へ導く事務方武士

 春は労務や人事担当者にとって、新入社員の入社、査定や昇給、それが終われば社会保険料の算定と忙しい時期だ。

 個人事業主にとっても春は税金と社会保険料の季節である。所得税の還付金が入って喜んだのも束の間、固定資産税だ住民税だ自動車税だと一気に押し寄せ、トドメは健康保険だ。しかも思い切り値上がりしていた。このときばかりは半分会社に持ってもらえる勤め人が羨ましくなる。

 嘆いても仕方ないので、市のウェブサイトで納入手続きを粛々と調べていたときのこと。「宝くじは市内で買いましょう」というバナーが目に入った。

 そうか、宝くじも自治体の財源なんだな――と思ったときに浮かんできたのが畠中恵『わが殿』である。幕末、借金に喘ぐ越前大野藩の財政立て直しを描いた歴史小説だ。

 天保8年(1837)、藩主・土井利忠が側仕えの大小姓・内山七郎右衛門に藩政改革を命じる場面から物語は始まる。まずは赤字削減・借金返済が急務なのだが、大野藩の歳入が1万2千両に満たないのに対して借金は9万両、利息だけで年1万両かかる。つまり利息の支払いだけで収入の8割以上が消えるのだ。

 立て直しもなにも既に破綻しているこの財政を七郎右衛門がどうしたか。これが実に興味深い。銅山の再開発事業を始める一方で、利子の低い金主へ乗り換えの交渉をする。他国に藩の特産物を出すアンテナショップを出す。しかも商人を通すとマージンを取られるので武士が直接経営するのである。

 面白いのはこれがすべて史実ということだ。これほど頭の柔らかい人が越前にいたのだなあ。

 しかし彼の苦労は終わらない。率先して倹約を断行していた藩主だが、藩校を作りたいとか鉄砲を買いたいとか言い出すし、挙げ句の果てには江戸藩邸が火事にあって建て直すはめに。なかなか赤字は埋まらないのである。まったく、思いつきでものを言う上司ほど厄介なものはない。

 この七郎右衛門の黒字請負人ぶりが実にエキサイティングだ。財務を担う事務方武士の描写も新鮮だし、数々のアイデアには感心することしきり。しかし実は本書の眼目はその先にある。七郎右衛門が成果を上げて出世するにつれ、周囲のやっかみが強まり、嫌がらせが始まるのだ。そしてついには命を狙われ……。

 成功者への妬みだけではない。刀から鉄砲への変換や、武士が商売をすることへの反発がそこにある。武士は武芸で主君に仕えるものだと信じてきた。銭勘定など不浄だと教えられてきた。その価値観が否定される。まるで自分の人生が否定されているように感じ、その鬱屈が七郎右衛門に向くのである。あたかも時代の変化が七郎右衛門のせいだとでも言うように。

 これは幕末だけの話でも武士だけの話でもない。藩にしろ会社にしろ変革を進めようとすると必ずどこかに軋みが出る。そのときどうするのか。現実に藩の財政を立て直して黒字転換させた七郎右衛門の言葉は今の私たちにも響くはずだ。

 もともとコミカルな妖怪ファンタジーや市井もので人気の著者だけあって、語り口は優しく読みやすい。時代小説に馴染みのない人も楽しめる一冊。

(畠中 恵 著、文春文庫 刊、上巻・税込737円、下巻・税込770円)

選者:書評家 大矢 博子

労働新聞
令和5年4月24日第3398号7面 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

労働新聞社

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