『本売る日々』青山文平著(文芸春秋)

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本売る日々

『本売る日々』

著者
青山 文平 [著]
出版社
文藝春秋
ジャンル
文学/日本文学、小説・物語
ISBN
9784163916682
発売日
2023/03/06
価格
1,870円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

『本売る日々』青山文平著(文芸春秋)

[レビュアー] 橋本五郎(読売新聞特別編集委員)

江戸の村に心の豊かさ

 読み終わってひとつの箴言(しんげん)が浮かんだ。「野に遺賢あり」。松月平助(しょうげつへいすけ)は村々を廻(まわ)り漢籍や仏書、歌学書などの学術書を届ける本の行商を生業にしている。『古事記伝』や『政談』『群書類従(ぐんしょるいじゅう)』なども導きにしながら、物語は思わぬ展開を見せる。本を愛する名主たちの姿には江戸時代の村の豊かさがある。本が日々の生活に融(と)け合って生きているのである。

 杉瀬村の名主藤助(とうすけ)は侍と百姓の板挟みに悩む毎日を送っている。しかし、国学を知って霞(かすみ)が晴れたようになる。古代を讃(たた)える国学のなによりの効用は「これが唯一の現実」ではないことを実感させてくれることにある。幕府だけでなく朝廷があったのだと気づかされた。「さかしら」を排し、嘘(うそ)偽りのない「まこと」の心を失わずに「すなほ」に生きるようにすればいいのだと国学は教えてくれた。

 小曽根(こぞね)村の名主惣兵衛(そうべえ)は、わが村が日本で一番豊かな村だと思う。佐野淇一(きいつ)という村医者がいるからだ。荻生徂徠も『政談』で書いている。大きな町の医者は渡世に追われ、やたらと診療の数をこなす。それも富める者だけを選ぶと。しかし田舎の医者は患者を選べない。薬礼を取れないのは当たり前。仁術にならざるをえない。だから自然に医者としての背筋が定まるのだ。

 日本一は村高(むらだか)が多いということではない。村人たちが医の不安なく暮らせるからだ。「淇一先生がまちがうんなら、それはもう仕方ないって。それで命を落とすとしたら、それはもう寿命なんだって。そういう風にね、信頼し切ることができるというのは、この御代(みよ)にあってはすごく贅沢(ぜいたく)で、豊かなことでしょう」

 信じることの大切さもこの本のキーワード。もはや江戸時代のことと思えなくなる。著者の描く村の豊かさとは、今の日本で失われた「心の豊かさ」ではないのか。人間が人間らしく生きるとは何かという、根源的な問いを私たちに突きつけているように思われるのである。

読売新聞
2023年4月28日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

読売新聞

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