山岳ミステリーの第一人者「梓林太郎」が訪ねる江の島……作品の端緒をもたらした思い出の人とは?

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松本・江の島殺人事件

『松本・江の島殺人事件』

著者
梓林太郎 [著]
出版社
光文社
ジャンル
文学/日本文学、小説・物語
ISBN
9784334077525
発売日
2023/04/19
価格
990円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

江の島みやげ

[レビュアー] 梓林太郎

 何十年も前のことだが、葛飾(かつしか)区の青戸(あおと)に住んでいた。中川(なかがわ)の近くで、雨の日がつづいて、川が氾濫する危険が迫っているという警報に脅えたことが、何度かあった。

 近所に「やすさん」という名の高齢の女性がいた。古い二階屋に住んでいる人だったが、孫が五人いて、大家族といわれていた。

 やすさんは、江の島が大好きで、孫が運転する車に乗って、たびたび江の島へ出掛けているようだった。どのようなきっかけで江の島へ行くようになったのかは知らなかったが、海に囲まれた江の島の風光をさかんに話していた。話だけでなく、魚の干物を両手で抱えるほど買ってきて、「干物は江の島のが一番だ」と宣伝するようなことをいって、近所の家の台所へ置いていくのだった。やすさんが持ってきてくれる干物を待っていたわけではないが、わが家は、近所の店の干物を買わなかったような気がする。

 わが家はお返しに、信州のリンゴか干し柿を進呈していた。

 やすさんはごくたまに、わが家へ上がり込んで、お茶を飲んでいくことがあった。江の島になぜ惹かれるのかを何度もきいたが、「ご飯がおいしいから」といっていた。彼女のいうご飯は磯(いそ)料理のことだった。魚が好きなのだ。彼女はたまに江の島へ一泊してくることがあった。それまでの私は江の島へ行ったことがなかったので、どのようなところへ泊まるのかをきいた。

「いい旅館があるのよ。そこのご飯がいいの」

 何十年も前だが、彼女の話をきいて江の島を訪ねてみた。長い橋を渡り、長い階段を昇って神社を参拝した。磯料理を食べたが、やすさんからきいていたほどの味ではなかったような気がする。

 今回は、江の島を舞台に書くために、長い橋を渡り、江島(えのしま)神社へ向かった。恋人の丘で龍恋(りゆうれん)の鐘を鳴らした。江の島の原点といわれている岩屋をのぞいた。

光文社 小説宝石
2023年5・6月合併号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

光文社

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