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純粋悪、暗黒神……おぞましいのに魅了されるマッカーシー作品の視線
[レビュアー] 豊崎由美(書評家・ライター)
テキサス州南西部の砂漠で、ヴェトナム帰還兵で溶接工のモスが麻薬密売組織同士の銃撃戦に遭遇。車の中に大量のヘロインと現金240万ドルを発見し、その大金が入ったカバンを持ち逃げしてしまう。モスの行方を執拗に追う殺し屋シガー。その過程でシガーが積み上げていく死体の山。保安官ベルは相次ぐ凄惨な事件の捜査を進めるが―。
コーエン兄弟による映画のほうは観たことがある皆さん、コーマック・マッカーシーの原作『ノー・カントリー・フォー・オールド・メン』(黒原敏行訳)も是非読んでみて下さい。冷徹なまでに切れ味のいい文体と、世界に向ける透徹した視線で描かれた、これはクライム・ノヴェルの皮をかぶった血と暴力の叙事詩、現代の神話というべき小説ですから。
〈人生の一瞬一瞬が曲がり角であり人はその一瞬一瞬に選択をする。どこかの時点でおまえはある選択をした〉〈もっと違ったふうになりえたと言うことはできる。ほかの道筋をたどることもありえたと。だがそんなことを言ってなんになる? これはほかの道じゃない。これはこの道だ〉
何の罪もない者を殺す前に、自分の人生観や死生観をとうとうと語るシガーが不気味ですが、作者から「純粋悪」と呼ばれるこのキャラクターと相通ずる人物が登場するのが、同じ文庫レーベルから同じ訳者で出ている『ブラッド・メリディアン』なんです。
主人公は、19世紀半ば、アメリカとメキシコの国境地帯で賞金と楽しみのためにネイティブアメリカンを虐殺しまくるギャング団に入った10代の少年。ここに出てくる、禿頭というばかりか全身に1本の毛も生えていない巨漢で、哲学、歴史、科学、外国語に精通する天才、「判事」と呼ばれる男がまるで暗黒神。おぞましいのに魅了されてしまうこと請け合いです。
ハードじゃないマッカーシー作品なら、やはり同レーベル同訳者による『すべての美しい馬』をどうぞ。これも映画化されてますけど、その100倍は素晴らしい青春小説にしてラブロマンスにして馬小説です。