『キャンパスの戦争 慶應日吉1934‐1949』阿久澤武史著(慶応義塾大学出版会)

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キャンパスの戦争

『キャンパスの戦争』

著者
阿久澤 武史 [著]
出版社
慶應義塾大学出版会
ジャンル
歴史・地理/日本歴史
ISBN
9784766428674
発売日
2023/03/04
価格
2,970円(税込)

書籍情報:openBD

『キャンパスの戦争 慶應日吉1934‐1949』阿久澤武史著(慶応義塾大学出版会)

[レビュアー] 牧野邦昭(経済学者・慶応大教授)

理想の教育 壊した戦禍

 現在の慶応大日吉キャンパス(横浜市港北区)には学生たちの明るい声が響いている。だがその下には太平洋戦争中の連合艦隊司令部などの地下壕(ちかごう)がある。キャンパスとそこに学ぶ学生たちが、戦争に巻き込まれていった歴史を忘れてはならない。本書は一つの大学キャンパスを通じて戦争を描く良書である。

 三田キャンパスの狭隘化(きょうあいか)をうけ、一九三四年に開校した日吉キャンパスの建設においては、都心から離れた郊外で知育・体育・徳育の三つの領域で全人格的な教育を行う理想的新学園を作ることが目指される。古代ギリシア風でありながら鉄筋コンクリート打放しの校舎(現在も慶応義塾高校が使用)は豊かな人間性と知性、そして精神の解放を表象しているという。

 しかし思想統制や軍事教練の強化によりキャンパスの学生生活にも戦争が入り込んでくる。戦時下の学生たちの揺れる心情を表すうえで、昨年亡くなった民俗写真家の芳賀日出男が日吉キャンパスで学んだ当時に撮影した写真が本書では効果的に使われている。そして対米開戦の報に興奮した学生たちは学徒出陣により出征して多くの戦死者を出し、キャンパスは海軍に使用され、終戦後は引き続き米軍に接収される。キャンパスの目指した理想が戦争により破壊されていく過程には胸が痛む。

 本書は日吉キャンパスが米軍から返還される四九年で終わるが、慶応義塾常任理事として日吉キャンパスの建設に尽力した槙智雄は戦後、防衛大学校初代校長となり、リベラルアーツ・カレッジとしての防大の校風確立に貢献した。キャンパスが戦禍に巻き込まれてしまった無念さから、槙は慶応でできなかったことを防大でやろうとしたという(国分良成『防衛大学校』中央公論新社)。理想としたキャンパスの建設が戦争により挫折し多くの悲劇を生んだ経験は、形を変えて戦後日本の平和の維持に役立ったのかもしれない。

読売新聞
2023年5月26日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

読売新聞

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