『消え去る立法者 フランス啓蒙における政治と歴史』王寺賢太著(名古屋大学出版会)
[レビュアー] 遠藤乾(国際政治学者・東京大教授)
「統治」論争 古典に切りこむ
ばらばらな個人から社会はどうできるのか。政治はいつ現れ、国家や政府、法律はどのような歴史のなかで成立するのか。そんな根本的な問いに政治思想史は答えてきた。なかでも、モンテスキューやルソーといった18世紀フランスの啓蒙(けいもう)主義者は、近代がはやくも揺らぐなか、先行するホッブズと格闘しながら、そうした問いに取り組んだ。
本書は、その思索の湖や概念の森に深く分けいる。その際、プラトン以来論争の的であった「立法者」―「正統な政治共同体の(再)創設者」―のあり方を手がかりに、語りつくされたかに見える古典に斬新な切りこみをいれ、現代に生きるわれわれにその意味を突きつける。
神々しい権威をもつ「立法者」は、近代には似合わない。モンテスキューにおいて、もはや統治は諸個人の関係から紡がれるが、不完全な存在である人間には「逸脱=派生」が不可避だ。立法者はそうして呼びだされる。ただし、社会に根づく法理(史)に沿い、「逸脱=派生」の先を見極めて新たに政治共同体を創設したのち、立法者は聖王ルイよろしく「消え去る」よう予定される。そうして初めて、「穏和な統治」が実現する。
ルソーは主著『社会契約論』にいたり、異なる道をゆく。一塊ですらない諸個人が「われわれ」を名指しすることで人民は水平的に構成される。しかし、いまだ潜在域にとどまる人民の主権が、一般意志を介して法を生み、人民みずからその法に服従するという円環に入る際、立法者を必要とする。ただし、その立法者が存在したのかどうかは、人民が法の制定者=服従者であるという二重性を引きうけ、そうすることで政治体を維持し、よって歴史を刻むことになったのちにやっと、後づけでわかることである。したがって、そこでも立法者は消えている。
ルソーがモンテスキューを転倒させ、歴史を過去からの制約としてでなく、潜在的な人民主権が顕在化しうる未来に投射しているのを見てとるとき、いまある政治や社会をいつでも転覆しうる可能性がそこに留保されよう。