メンタリストDaiGo氏推薦!45分の読書が奇跡を起こす。名著、新訳!――『金より価値ある時間の使い方』アーノルド・ベネット 文庫巻末解説【解説:河合祥一郎】
レビュー
- KADOKAWA カドブン
- [レビュー]
- (自己啓発)
『金より価値ある時間の使い方』
- 著者
- アーノルド・ベネット [著]/河合 祥一郎 [訳]
- 出版社
- KADOKAWA
- ジャンル
- 文学/外国文学、その他
- ISBN
- 9784041141441
- 発売日
- 2023/12/22
- 価格
- 880円(税込)
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メンタリストDaiGo氏推薦!45分の読書が奇跡を起こす。名著、新訳!――『金より価値ある時間の使い方』アーノルド・ベネット 文庫巻末解説【解説:河合祥一郎】
[レビュアー] カドブン
■時代と国境を超え多くの知識人に愛される時間術の名著
『金より価値ある時間の使い方』アーノルド・ベネット
角川文庫の巻末に収録されている「解説」を特別公開!
本選びにお役立てください。
■『金より価値ある時間の使い方』文庫巻末解説
解説
河合祥一郎
時間は金で買えないという本書の主張に首をひねる人も多いだろう。たとえばアルバイトをお願いして、その謝礼を払えば、アルバイトをしてもらった時間を金で買っていることになるのではないか。それに高速道路や飛行機を利用すれば目的地により速く着くとき、その分の時間は金で買ったことになる。
最初の点は、著者アーノルド・ベネット(一八六七~一九三一)の出自を考えればある程度納得できる。すなわち、十九世紀の英国中部スタッフォードシャーの中産階級(父は事務弁護士)に生まれて下積み生活を長くつづけたベネットは、本書を中産階級向けに書いている。自分は雇用される立場にあって、人を雇用する立場にないという意識が強かったのではないだろうか。とは言え、当時のイギリスの中産階級の家庭では、本書の序文からも窺えるように召し使いを住み込みで雇うのが当然だったので、家事にかかる時間をお金で買っていたとも言えそうだが。
第二点の高速移動については、こう考えられる。高速道路の建設はアメリカでは二十世紀初頭から始まっていたが、イングランドではずっと遅く、ベネットは恐らく高速道路を走ったことがない。旅客機が広まったのも一九三〇年代なので、ベネットは飛行機で行けば時間短縮ができるという経験もしたことがなかった。
ベネットは、中等教育を終えたのち、十八歳から父の弁護士事務所で家賃徴収などの仕事に就き、二十一歳でロンドンに出て、事務弁護士事務所の書記をしながら著作をつづけ、二十七歳で雑誌『ウーマン』の副編集長となった。一八九〇年代から一九三〇年代にかけてベネットは、小説三十四作、短編七巻、戯曲十三本のほか、評論や演劇批評や映画シナリオも書くなどきわめて多産で、英米で超有名作家となった。代表作は小説『二人の女の物語』(一九〇八、岩波文庫所収、別題『老妻物語』)。
一九二三年三月『キャセル週刊誌』にヴァージニア・ウルフの『ジェイコブの部屋』の書評を載せ、「ウルフの創造した人物は本物ではなく、やがて忘れ去られてしまう小説だ」と書いたのがウルフの逆鱗に触れ、ウルフはエッセイ「ベネット氏とブラウン夫人」(一九二四、福原麟太郎監修・黒沢茂編集『ヴァージニア・ウルフ著作集7 評論』所収)でベネットの小説を酷評している。当時彼はそれだけ影響力のあった人物であったことの証左である。
一九一一年の滑稽小説『当世人気男』(原題 The Card)はアレック・ギネス主演映画(一九五二)となり、一九七四年に小説家マーガレット・ドラブルがベネットの評伝を出し、一九九二年に批評家ジョン・ケアリが『知識人と大衆──文人インテリゲンチャにおける高慢と偏見一八八〇~一九三九年』(東郷秀光訳、大月書店、二〇〇〇)のなかでベネットを大いに持ち上げて再評価を行っている。
本書の原題は『一日二十四時間で生きる方法』(How to Live on 24 Hours a Day)。一九〇七年にロンドンの『イヴニング・ニューズ』に連載され、翌年本の形で初版が出ると大評判となり、ヘンリー・フォードが五百冊購入して友人や従業員に配布したという。一九二六年に第十七刷が出るほどの人気となり、現代に至るまでその人気は揺るがない。
文体が軽いというか、序文にあるように「ふざけている」と感じられるところもあり、表現がわかりづらい部分がある。基本的に訳注で補ったが、ここでも少し補足しておこう。
第1章で「たとえあなたがカールトン・ホテルの荷物預かり係ほど大金を持っていようと」とあるが、なぜアラブの石油王とかヘンリー・フォードとかではなく「荷物預かり係」なのだろうと訝しく思った人もいるだろう。これは恐らく、一九〇四年十月二十日、カールトン・ホテルの荷物預かり係トマス・マカラーがホテルを訴えて勝訴して五十ポンド(約百四十万円相当)を獲得した判決への言及と思われる。荷物預かり係は週五シリングの給与のほか客からのチップで生計を立てていたが、カールトン・ホテルは客から得たチップをすべて集めて従業員に分割する制度を取っており、マカラーは十八か月間個人的に受け取ったチップ総額八十三ポンド十九シリングの返却を求めて訴えて(全額ではないが)勝訴したのである。全額得たとしたら約二百三十五万円相当であり、「チップだけでそれだけもらえるとはすごい」と当時話題になったのであろう。同年十月二十一日『ロンドン・スタンダード』紙、二十九日『スペクテイター』誌等が報じている。
第11章で「ひとりでに発砲して相手を倒してしまう銃」とある原文は a gun that will go off by itself and kill at forty paces(ひとりでに発砲して四十歩先の相手を殺す銃)である。当時西欧での拳銃での決闘では(西部劇とちがって)四十歩の距離を置くしきたりがあり、そこから破壊的な魅力のあるものを形容するときに kill at forty paces という表現を用いた。She could kill at forty paces with a single glance(彼女がチラリと流し目をくれれば、相手はイチコロ)とか I’ll try a shot of your flintlock whiskey, Guaranteed to kill at forty paces(君の火打石銃のようなウィスキーを一発飲んでみよう。確実にやっつけるというやつを)(二〇〇八年のエリック・ソーヤー作オペラ『われらがアメリカのいとこ』歌詞より)という具合である。
第2章で、スペンサーが研究の本流を外れて嵌まったという「心地よい淀み」とは、後にスペンサーが自ら否定する骨相学研究のことか。骨相学については角川文庫『ポー傑作選2』所収の「ポーの用語」を参照されたい。
閑話休題。
冒頭で「時間は金で買えない」という表現について揚げ足取りをしたが、もちろんベネットの本意は「どんなに金を積んでも一日二十四時間という持ち時間は増えない」ということだ。金を払うことで自分の時間が増えたように感じても、それは本来自分が仕事や移動で使うはずだった時間を他に利用できるからそう感じるだけであって、その時間を本当に有効利用できているかどうかは別問題であるわけだ。現代はいろいろな点で効率化が進み、人々は道具を上手に使いこなすことで、自分の自由な時間を生み出すことができる時代となった。かつて膨大な時間を必要とした作業も短時間ででき、その分、時間の余裕が生まれる。しかし、その時間をどのようにして費やすべきかという点に関して、本書の提言は古びることがない。
本書が下敷きにしているストア派哲学
本書の通奏低音としてストア派哲学がある。第7章で言及されるマルクス・アウレリウスとエピクテートスがその代表的哲学者だ。実はシェイクスピアに計り知れない影響を与えた哲学である。後述するパスカルやラ・ブリュイエールも言及している哲学であり、およそ教養人たらんとする者はその概要を知らないではすまされない。
ここに簡潔に記しておこう。
マルクス・アウレリウス・アントニヌス(一二一~一八〇)は第十六代ローマ皇帝であったが、五賢帝の一人に数えられるほど学識に長け、その著書『自省録』(一六一~一八〇)で自らの哲学を語った。『自省録』は岩波文庫(神谷美恵子訳、一九五六、改版二〇〇七)や講談社学術文庫(鈴木照雄訳、二〇〇六)で出ている。
その思想は古代ギリシャの哲学者エピクテートス(五〇頃~一三五頃)の教えを受け継ぐものであり、エピクテートスの『語録』と『提要』がストア派哲学のテキストとして極めて重要となる。中公クラシックス『エピクテトス 語録 要録』(鹿野治助訳、二〇一七)として訳出されているが、岩波文庫では『人生談義』と題されている(鹿野治助訳、一九五八、新訳版・國方栄二訳、二〇二〇~二一)。
ストア派哲学(Stoicism)の内容は、現代も用いられる「ストイック」という語からも窺える。英語では stoic は「感情を抑え、苦痛や喜びを示さない」という意味で用いられることが多いが、日本語では「自分を厳しく律して、自ら定めた目標のために淡々と努力をつづける」という本来の意味に近い意味で用いられている。
この哲学を修得すれば、どんな困難にも打ち克つことができ、ストレス・フリーな精神状態で、常に冷静に振る舞い、自分の力を最大限に発揮するようにコンディションを整えることができる。
その方法はこうだ。「外的な要因は自分ではどうすることもできないが、自分の心は自分でコントロールできると知れ」という大原則を徹底させるのだ。
今、雨が降っているとしよう。「今日だけは絶対雨が降ってほしくない」と願う何らかの理由があなたにあったとしても、「雨よ、やめ」と念じてみたところで雨はやまない。「何で、よりによって今日、雨なんだ!」と叫んでも意味はない。意味のないことはしない。「では、どうすべきか」という次善の策を直ちに考えるしかない。
絶対に遅れてはならない理由があって、ひどく急いで目的地に向かっているときに、人身事故か何かがあって電車が止まったとしよう。あなたがなすべきことは、電車が止まったことに対して悲鳴を上げることではない。タクシーに乗るのか、乗るならタクシー乗り場はどこか。直ちに次の行動に移ることだ。
これらのアクシデントはすべて、「心の外にあるもの」(アディアポラ)であるが、あなたがそれに対してパニックしたり、嫌だと思ったりしたとたん、それはあなたの心に入り込み、「心の内にあるもの」(ファンタズマ)と化して、心にストレスを与えることになる。エピクテートスの『要録』五に「人々を不安にするものは、事柄(pragma)ではなくて、事柄についての思惑(dogma)だ」とあるのは、そのことを指している。
人からひどいことを言われたとしよう。それは事柄であり、アディアポラだ。心の外にあるものであり、あなたが何らかの判断を下さなければならないものではない。あなたがそれを「ショックだ」と感じて思惑として心の中に取り込んだとき、それはあなたにストレスを与える。悔しさのあまり、夜も眠れず食事も喉を通らないほど、ずっとそのことを考えつづけてしまう人もいるだろうが、悪口を言った相手の低能さを激しく軽蔑して直ちに記憶から抹殺できる人もいるだろう。事柄についての思惑(dogma)は、あなた自身がコントロールできることだ。苦痛に集中し、それを意識しつづけることを選ぶのか、それを苦痛として受け止めないことを選ぶのか、あなたが決めるのだ。
ストア派は、余計なものを心の中に取り込まないように細心の注意を払い、不動心(アパテイア)を維持することを目指した。夏目漱石の『それから』の冒頭部で主人公の代助が「二十世紀の日本に生息する彼は、三十になるか、ならないのに既に nil admirari の域に達して仕舞った」とあるのは、この不動心(アパテイア)を獲得したと考えてよいだろう(「ニル・アドミラリ」とは「何事にも驚かない」、「何事にも動じない」という意味のラテン語の語句)。
エピクテートス『要録』二十には、こうある。
「記憶しておくがいい、きみを侮辱するものは、きみを罵ったり、なぐったりする者ではなく、これらの人から侮辱されていると思うその思惑なのだ。それでだれかがきみを怒らすならば、きみの考えがきみを怒らせたのだと知るがいい。だから第一に、心像に奪い去られぬようにしたまえ」(訳は中公クラシックスより)。
「ファンタズマ」とは、前述のとおり、心の中に形成される像のことであり、「心の内にあるもの」を指す。
同様のことはアウレリウスの『自省録』第九章四二にもあり、ひどいことをされても、腹を立てるのではなく、そういうことをする無作法者は世の中にいるものだという事実を冷静に受け容れよと説かれている。
運命にどんなにひどい仕打ちをされても、それを淡々と受け容れて、苦しむことなく、冷静な判断力を常に行使する──これがストア派の理想であり、シェイクスピアの『ハムレット』では、ハムレットが親友のホレイシオをそのように描写している(以下、シェイクスピアの訳は角川文庫、河合祥一郎訳より)。
なにしろ君は、
あらゆる苦難に遭っても、苦しむことがなく、
運命のひどい仕打ちもご褒美も、同じように感謝して
受け取ってきた男だ。燃える血潮と冷静な判断力とが
これほど巧みに混ざり合い、
運命の女神のいいなりの音色を奏でたりしない
そういう人間がうらやましい。
(『ハムレット』第三幕第二場)
これこそまさにストア派哲学の理想的実践と言えるのではないだろうか。
さらにハムレットは、「そもそも、それ自体よいとか、悪いとかいうものはない。考え方一つだ」(第二幕第二場)とも言うが、これはストア派に於いて、「意志を離れては善いものも悪いものもない」(『要録』三十二)──つまり、アディアポラを《理性による判断のできない外的なもの》と看做すとき、理性による判断ができないので「善」でも「悪」でもない──と考えるのと同じである。
たとえば、雨が降っていることは「善」でも「悪」でもない。雨天中止のイベントを企画していた人には「悪」かもしれないが、「雨雨ふれふれ、かあさんが♪」と歌う子供にとっては「善」だろう。人の心がそれをどう受け取るかが問題なのである。
以上を踏まえれば、第7章の冒頭に「つらいと感じるのも、うれしいと思うのも、頭でそう認識するからだ」とあるのは、ストア派哲学であることが理解できるだろう。
このように、ストア派は、自分の心は自分でコントロールできるはずだと説く。
シェイクスピアの描くブルータス(シェイクスピアの『ジュリアス・シーザー』の登場人物)もストア派哲学の実践者であり、最愛の妻ポーシャが死んでも深い悲しみに耐えて自分を律して、冷静に仕事を進めようとする。ハードボイルドでクールな生き方だ。
心が不安・嫌悪・恐怖・圧迫などを感じるとストレスになるわけだが、どんな劣悪な外的要因(アディアポラ)があっても、それらはアディアポラにすぎないと認識し、その影響を受けない自分の心の平安(アパテイア)を維持できるとき、人はストレス・フリーの状態で本来の自分の力を発揮することができる。パニックになりそうなときに自らに「落ち着け」と命じ、できるかぎり冷静に行動すること。屈辱や憎しみや恨みを抱えても、自分にはプラスにならないと判断し、すぐさま考え方を切り替えること。それがストア派のやり方だ。
しかし、物事の両面を描くシェイクスピアは、ストア派の限界も指し示す。
『から騒ぎ』第五幕第一場で、レオナートは言う。
悲しみに押しつぶされている者に
忍耐を説くことは誰でもすることだが、
どんなに徳があって、ものがわかった人でも、
自分自身がそのような目に遭えば、
忍耐はできんのだ。
……
わしは生身の人間なのだ。
哲学者だって歯の痛みをじっとこらえることは
できたためしがない。
換言すれば、理屈では「常に冷静に」と説くことは可能だが、実際何かが起きたとき冷静ではいられないのが人間だということだ。頭ではわかっていても、気持ちが収まらないことはある。だいたい、常に冷静でいたら、恋愛などできやしない。
『ロミオとジュリエット』第三幕第三場で、追放の宣告を受けて「もうジュリエットに会えなくなる」と嘆き悲しむロミオに対して、ロレンス神父が慰めのために教えようとする「逆境の甘いミルク、哲学」とはストア派哲学の謂いにほかならない。しかし、ロミオは叫ぶのだ。
哲学なんかまっぴらです。
哲学でジュリエットが作れますか。
恋をしたり、大切な人と一緒に大いに泣いたり笑ったりして濃厚な時間を過ごすことが、充実した人生を過ごすには欠かせないのも真実だ。ひょっとすると、ストア派哲学を実践できるようになる年齢というのがあるのかもしれない。若い血潮も枯れてきて「今更、恋でもあるまい」という落ち着いた年齢になったら、ストア派哲学に耳を傾けるといい。若いうちは、がむしゃらに生きたほうがいいことは、ベネットも第6章冒頭で仄めかしている。
本書が推奨する作家たち
そのほか、第8章で、パスカル、ラ・ブリュイエール、エマソンの名が出てきたので、ここでかんたんに解説しておこう。
十七世紀フランスの哲学者パスカルについては、『パンセ』を参照されたい。邦訳は中公文庫プレミアム(前田陽一・由木康訳、二〇一八)や岩波文庫(塩川徹也訳、三巻、二〇一五~一六)から出ている。最も有名な箴言は次のものであろう(訳は岩波文庫より)。
「二〇〇 人間は一本の葦にすぎない。自然のうちで最もか弱いもの、しかしそれは考える葦だ。人間を押しつぶすのに宇宙全体が武装する必要はない。一吹きの蒸気、一滴の水だけで人間を殺すのには十分だ。しかし宇宙に押しつぶされようとも、人間は自分を殺すものよりさらに貴い。人間は自分が死ぬこと、宇宙が自分より優位にあることを知っているのだから。宇宙はそんなことは何も知らない。
こうして私たちの尊厳の根拠はすべて考えることのうちにある。私たちの頼みの綱はそこにあり、空間と時間のうちにはない。空間も時間も、私たちが満たすことはできないのだから。
だからよく考えるように努めよう。ここに道徳の原理がある」
『パンセ』は、人間の抱える矛盾を深く考察する一方、キリスト教の弁神論として書かれており難解なところもあるので、山上浩嗣著『パスカル「パンセ」を楽しむ 名句案内40章』(講談社学術文庫、二〇一六)や、鹿島茂著『「パンセ」で極める人間学』(NHK出版、二〇二二)などを参照するとよいだろう。
十七世紀フランスのモラリストであるラ・ブリュイエールについては、岩波文庫から出ている『カラクテール──当世風俗誌』三巻(関根秀雄訳、一九五二~五三)を参照されたい。多くの箴言がテーマごとに並んでいる。たとえば、第十一章「人間について」に次のようにある(訳は岩波文庫より)。
「一三 貧乏が犯罪の母だとすれば、叡智の欠如はその父である」
「三四 人々が最も永く保ちたいと思ひながら、しかもさほど大切にしないものは何か。彼ら自らの生命である」
「一三七 たいていの人々は、その目標に達するのに、大きな努力をすることは出来るが、長い辛抱をすることはなかなか出来ない。彼等の怠惰或はあきつぽさは、立派な踏み出しの成果をむだにしてしまふ。彼等は往々にして後から来た者に追ひこされる。のろのろとしかし辛抱づよく歩いて来たそれらの人たちのために」
これは、ベネットが本書で力説しているポイントでもある。
ちなみに題名の「カラクテール」を英語読みすると「キャラクターズ」であり、関根秀雄訳が白水社の仏蘭西文庫(一九四九~五〇)で出版されたときの題名は『人さまざま──又の名當世風俗誌』となっていた。ウィリアム・ハズリットにも箴言集『人さまざま』(中川誠訳、彩流社、一九九〇)があるが、後者はラ・ロシュフコーの箴言集(邦訳に武藤剛史訳、講談社学術文庫、二〇一九など)に倣ったものである。
ラ・ブリュイエールやラ・ロシュフコーらフランス・モラリストの源流として、シェイクスピアにも影響を与えたモンテーニュの存在がある。ベネットは言及していないが、モンテーニュの『エセー』(随想録)も、ここで挙げておくべきであろう(邦訳に宮下志朗訳、白水社、全七巻、二〇〇五~一六ほか)。
最後に、十九世紀のアメリカの思想家で、「コンコルドの賢人(哲人)」とも言われたラルフ・ウォルドー・エマソンは、角川文庫『ポー傑作選3』の「ポーを読み解く人名辞典」でも解説したように、エドガー・アラン・ポーが目の敵にした相手である。
エマソンの哲学を要約すれば、「自分を信ぜよ」「すべては自分のなかにある」ということになろう。良くも悪くもアメリカン・ドリームの根底を支えた思想であり、アメリカの独善性にもつながる。彼が唱えた超絶主義思想は、絶対的な自己肯定と個人主義のもとに、自然と一体になれるとするもので、ポーは神秘主義だと断じた。
代表的な論考は「自己信頼(Self-Reliance)」というもので、岩波文庫の『エマソン論文集』二巻・酒本雅之訳(一九七二、七三)に収められているほか、新訳──『自己信頼』伊東奈美子訳(海と月社、二〇〇九)や、『自分を信じる力』大間知知子訳(興陽館、二〇一八)──も出ており、オバマ大統領が愛読書だと明かして話題となった。
『エマソン選集』全七巻(日本教文社、一九六〇~六一)のほか、多数の関連書が出ている。