『Xの悲劇【新訳版】』
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唯一無二のその瞬間
[レビュアー] 北村薫(作家)
死ぬ間際に残した手がかり(※画像はイメージ)
書評子4人がテーマに沿った名著を紹介
今回のテーマは「遺言」です
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新潮社の『海外ミステリー事典』(権田萬治監修)で、「ダイイング・メッセージ」を引くと「瀕死の重傷を負った被害者などが死ぬ間際に残す、犯人や事件を暗示する謎めいた手がかりのこと」と書かれています。
諸般の事情から、伝えたいことを明示できない人物が別の形で残したメッセージ。密室ものやアリバイものと並んで、本格ミステリの、ひとつのジャンルになっています。
最も著名な例としてあげられるのが、エラリー・クイーンの『Xの悲劇』(中村有希訳)です。被害者は、銃で射たれそうになったわずかの間に、左手の指を奇妙な形にし、次の瞬間、生を断たれたのです。
その少し前、被害者は探偵役となるドルリー・レーンから、こんな話を聞いていました。
ウィーンのホテルで射たれた男が、死ぬ前に砂糖壺をひっくり返し、中のザラメをひとつかみ握りしめていた―というのです。それが、犯人が誰かを示していた。
レーンはいいます。
死ぬまでの短い時間に、自分が唯一、犯人の正体を指し示すことのできる手がかりを、みごとに残してみせたのですよ。ですから、おわかりでしょう―人間の脳は死を目前にした時、神のみわざにも似た唯一無二のその瞬間は、限界というものが消えてしまうのです。
これもまた、特殊な形の遺書といえるでしょう。