『きらん風月』
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『きらん風月』永井紗耶子著
[レビュアー] 長田育恵(劇作家・脚本家)
文人墨客 定信との邂逅
薫風の旅に携えたい一冊をご紹介したい。江戸後期、ここは東海道、日坂宿にある煙(たば)草(こ)屋。旅のご隠居が立ち寄り、白髪のあるじが迎えた。このあるじ、実は戯作者で上方の文人墨客として遍歴した栗(りつ)杖(じょう)亭(てい)鬼(き)卵(らん)。そしてご隠居は寛政の改革を断行した元老中、松平定信。出版統制令や異学の禁を強行し、隠居後は「風月翁」と号した。そう、この軒先で「鬼卵」と「風月」は邂(かい)逅(こう)したのだ――そんな着想から生まれた物語は、筆先から迸(ほとばし)る力をしなやかに振るうことで辿(たど)り着ける、人生の境地を謳(うた)い上げる。さらに自由とは。政に圧(お)されない力とは。江戸後期に開花した町人文化の神髄にも触れられる。
本作は鬼卵が定信に自身の半生を語る構成となっている。定信は正体を隠したまま、この飄(ひょう)々(ひょう)とした男に興味を抱く。まずは鬼卵が自らの号をつけた若き日々のこと。狭山のお家騒動に直面し、義憤に駆られた。師匠の栗(りっ)柯(か)亭(てい)木(ぼく)端(たん)は筆の力を説く。筆先からは神仏も鬼も出る。人心を躍らせ救いもする。だからこそ卵を握るように筆を優しく握れ。力を抜いて笑いながら書けと。それから鬼卵は、掌(てのひら)の卵が孵(かえ)る日を望んで、己の芸道を歩み、筆を握り続ける。
白紙に線を引けば命が宿る。筆から生まれたものは人柄を伝えるから信頼が生まれる。だから文人墨客同士、蜘(く)蛛(も)の巣のように繋(つな)がり合える――鬼卵が関わる人々、文化の創り手たちは実に多彩だ。大坂の文人墨客の精神的支柱、木村蒹(けん)葭(か)堂(どう)。『雨月物語』作者の上田秋成、絵師の円山応挙ら。ことに人生に根差す女性たちの生き様は胸に残る。鬼卵は天明の飢(き)饉(きん)に際し、己の無力を痛感するが、荒れ地にあって一滴の水となるのもまた、筆先が生み出すものなのだ。
コロナ禍後、人の在り方が変わってきた現在、強さとはしなやかさにあると感じる。煙草屋の軒先に身分の上下はなく、誰もが自由である。これは鬼卵が到達した設(しつら)えなのだ。風変わりな邂逅が定信をも変えていく予感が爽やかだ。(講談社、1980円)