『馬の惑星』
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星野博美『馬の惑星』刊行に寄せて 馬が誘う時空旅行
[レビュアー] 星野博美(作家・写真家)
『馬の惑星』刊行に寄せて 馬が誘う時空旅行
「けっこうな大怪我だったのに、よくここまで右腕が上がるようになりました。半年間、がんばりましたね」
二〇二四年二月末日、療法士の先生から無事、「卒業」の言葉をいただき、私は半年間にわたるリハビリを終えた。
遡ること半年前の二〇二三年八月一二日、モンゴルのウランバートルから六〇kmくらいの地点で小川を渡りそこねて落馬し、右腕の付け根を強打した。骨折が判明したのは、帰国後のことだ。
落馬した経験は数多くあるし、死ぬかと思ったことも何度かある。実際、骨折する前日には走りながら「死ぬ! 」と思ったが、その時は落馬しなかった。しかし、死なないと思っていた小川で不覚をとった。
骨折が判明してから、右腕を吊る日々が三週間ほど続いた。その間のノートをめくると、吊った状態で鉛筆を握っていたため、明らかに字がおかしい。筆圧の弱い乱れた字で、私はしきりに以下のようなことを書きつらねていた。
「モンゴル帝国の皇帝オゴデイ・カアンは、帝国内に『ジャムチ(駅伝制度)』を敷いた。駅亭は約三〇kmごとに設けられ、旅人や使節はそこで馬を乗り換え、帝国内を旅した」
「モンゴル軍をアイン・ジャールートで破ったマムルーク朝のスルタン、バイバルスは、エジプト・シリア間に駅伝『バリード』制を整備。数十kmごとに駅舎が置かれ、街道沿いのアラブ遊牧民には駅舎に置かれる馬の提供が義務として課せられた」
「ブリタニカ国際大百科事典によると、『バリード』はもともとイスラム国家の駅えき逓てい・通信制度。駅舎は、イランでは二ファルサフ(一二km)、イラクやエジプトでは四ファルサフ(二四km)おきにおかれるのが普通であり、馬、ろば、らくだ、それに危急の場合にははとが用いられたらしい」
草原、高原の多いモンゴルでは三〇km、乾いた土地の多そうなイランでは一二km、イラクとエジプトが二四km……。それが、かつて広大な帝国や王国内を行き来した馬の名手たちが判断した、馬が生存を脅かされずに疾駆できる最長距離だったのだ。
やっぱりな! 私は深い溜息をついた。
私が参加した外乗愛好家のモンゴル・ツアーは、一日五〇kmを馬で走破することをウリにした過酷なツアーだった。参加者の実に三分の二が落馬した(骨折したのは私だけだったが)。実質的な一日の移動距離は、同行者が計測したところ約四三kmだったのだが、それでもオゴデイの定めたジャムチより四割もオーバーしている。馬の名手であるモンゴルの先人たちが三〇kmと言ったのに! 考えが甘かった。古(いにしえ)の人たちの知恵を軽視すべきではない。
乱れた文字群からは後悔の念がにじみ出ていた。馬に過重労働を強い、下手をすると生存を脅かす可能性さえあった、無理筋なツアーだったのだ。
そして、はたと我に返る。おかしいだろう。オゴデイ・カアンやバイバルスを引き合いに、自分の骨折原因を反省するなんて。しかしこれが、最近の自分の感覚なのである。
馬に乗り始めてから、世界観や時間軸がへんになった。いや、馬に乗る人は世間にたくさんいて、彼らはそうならなかったかもしれないが、私はなぜだかそうなってしまった。
その原因は、車と馬にほぼ同時に乗り始めたことにあるのかもしれない。私は二〇一〇年、五島列島・福江島のごとう自動車学校で合宿免許中、自動車学校の飼う馬に乗り始めた。もし車の免許を取ろうと考えなければ、仮にそう考えたとしても、馬のいるごとう自動車学校へ行かなければ、馬とは出会っていなかっただろう。実に不思議な縁だったと思わざるをえない。
両者にほぼ同時に乗り始めたため、馬が「乗り物」という感覚が強くなった。動力のなかった時代、馬はいまでいう戦闘機のような存在だった。馬を操る人たちは、戦闘機を手にしたのと同時に、他者より早く情報を得られたことで、情報ハイウェイも握った。つまり、世界を牛耳ったのだ。
馬は、馬が主役だった時代や空間へ、ひとっとびで連れていってくれる。頭の中にあった地図は次々と塗り替えられ、時間はどんどん遡っていく。そんな旅行を可能にしてくれる乗り物は、他にあまりない。
『馬の惑星』は、馬に乗って時空旅行をした話である。行き先はアンダルシア、モロッコ、トルコなど。その楽しさを少しでも共有していただけたら幸いだ。
星野博美
ほしの・ひろみ●ノンフィクション作家、写真家。
1966年東京都生まれ。2001年『転がる香港に苔は生えない』で第32回大宅壮一ノンフィクション賞受賞。著書に『コンニャク屋漂流記』(いける本大賞、読売文学賞随筆・紀行賞)『島へ免許を取りに行く』『世界は五反田から始まった』(大佛次郎賞)等多数。