樹海に行って生きる勇気をもらった…行方不明だった5歳児の空白の一週間、誹謗中傷を受け続ける母 荻原浩2年ぶりの長編小説の読みどころ

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笑う森

『笑う森』

著者
荻原 浩 [著]
出版社
新潮社
ジャンル
文学/日本文学、小説・物語
ISBN
9784104689071
発売日
2024/05/30
価格
2,420円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

そこにあるのは、“希望”の光

[レビュアー] 吉田伸子(書評家)

 直木賞作家・荻原浩さん2年ぶりの長編小説『笑う森』(新潮社)が、第19回中央公論文芸賞を受賞した。

 トレッキング中に行方不明になった5歳男児を捜索する場面から始まる本作の読みどころとは?

 書評家の吉田伸子さんが綴った書評を紹介する。

吉田伸子・評「そこにあるのは、“希望”の光」

 あぁ、やっぱり荻原さんの物語には、人間に対する信頼があるんだな。読後、改めてそう思う。

 本書の真ん中にいるのは、神森と呼ばれる小樹海で、一週間行方不明だった五歳児・山崎真人だ。発達障害があり、軽度ではあるが知的障害もある。そんな真人が、何故、樹海で生き延びることができたのか。物語はその謎を中心に回っていく。

 実は、真人が行方不明になっていた同じ時期、神森に足を踏み入れた人間がいた。死体を遺棄しにやって来た美那、「タクマのあくまで原始キャンプ」というユーチューブチャンネルでソロキャンプを配信している戸村拓馬、組の上納金を盗み、逃走中の谷島、そして神森を死場所と定めた畠山理実。たまたま神森にやって来た四人は、図らずもそれぞれに真人と遭遇していた。

 彼らがどうやって真人と接点を持ったのか。それを明かしていくのが、真人の母・岬と、亡くなった真人の父の弟であり、岬には義弟にあたる保育士の冬也だ。ただでさえ五歳児という幼さに加え、発達障害のある真人から、具体的なことを聞き出すのは難しい。それでも、樹海から生還後の真人の言動をつなぎ合わせたり、自らも樹海へ足を運び、真人視線で現場を確認したりすることで、冬也は少しずつ“真人の空白の一週間”の真実に近づいていく。

 巧いな、と思うのは、美那、拓馬、谷島、理実それぞれのドラマの描き方だ。美那が殺めたのは、交際相手の一也で、突発的な事故のようなものだった。別れ話を切り出された時、たまたま美那が持っていたのが柳刃包丁で、勢いで刃を向けたところ、相手が殴ろうとする気配を感じて、思わず腕を前に突き出してしまったのだ。あっけなく死んでしまった一也を、ホームセンターで買った布団袋に押し込み、同じくホームセンターで買った台車とシャベルを持って、神森に。この美那のキャラがね、どう読んでもお馬鹿キャラなんだけど、彼女の調子っぱずれな感じが、可笑しいんだけど、切なくもある。

 拓馬も拓馬で、お調子者というか、三十六歳で売れないユーチューバーというだけで、お察しな感じだ。ちなみに、ユーチューバーは四つ目の転職先である。「道具や食材は最低限のものしか用意せず、極力、山の中のものを利用する」ことを売りにしてはいるものの、その実は、編集でうまく誤魔化している“なんちゃって”ソロキャン。火起こしだけは本格的な「縄文式」でやっているが、それとて途中からカメラを止めてライターで着火。おい、世の中舐めてんのか、と突っ込みつつ読んでいくと、拓馬にも拓馬の、ここに至るまでの不運と挫折があることがわかる。なんというか、今どきあるある、な拓馬の在り方は、妙にリアルだ。

 谷島は谷島で、どうして組の上納金に手を出してしまったのかといえば、偏に心臓に病を抱え、移植手術が必要な一人娘のためだ。フィリピーナの妻からは離婚を言い渡されているが、娘を助けるための、この金さえ届けられれば、自分の身はどうなろうとかまわない、と腹を括っている。その背景があるから、読んでいるこちらまで、逃げろ、谷島、なんとか逃げ延びろ! と思ってしまう。

 理実は、担任している中学校のクラスで、生徒からいじめを受けているばかりか、周りの教職員からもハブられるわ、クラスの保護者にモンペがいて、もう渡る世間は鬼だらけ、の状態。命を終わらせたくなるのもむべなるかな、なのだけど、この理実、ビミョーに自意識過剰系で、ピントがずれている感じがまたなんとも。

 ともすればヘビーになりそうなこの四人を描き出す荻原さんの筆の塩梅が絶妙で読ませるのだが、それに並行して、真人が行方不明になったことで、ネット上で岬を手酷く中傷する書き込みのうち、とりわけ悪質な投稿者二人を冬也が拓馬の協力のもと、特定していくあたりも読ませる。

 随所にちりばめられている、思わず吹き出してしまうようなディテール(過去、あることを機にボクシングを始めた岬のリングネームとか、死を決意した理実が、折しも紅葉の季節なので、「そうだ、冥土行こう。」と思うところ、等々)も効いている。

 何よりも素晴らしいのは、樹海で真人と出会った四人に起こる変化だ。そこにあるのは、荻原さんが見せてくれる“希望”の光だ。ささやかではあるが、強い光だ。

 四百頁を超える長編だが、読み始めると一気。読み終えた後、世界がほんの少し優しく思える一冊だ。

新潮社 波
2024年6月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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