『「ふつうの暮らし」を美学する』
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【毎日書評】「ふつうの暮らし」を観察することで見えてくる「日常美学」のすすめ
[レビュアー] 印南敦史(作家、書評家)
『「ふつうの暮らし」を美学する 家から考える「日常美学」入門』(青田 麻未 著、光文社新書)の著者は美学者として、「日常美学」と呼ばれる分野の研究に携わる人物。ちなみに日常美学とは、私たちの“なんでもない日常生活”のなかで感性が果たしている役割を明らかにしようという学問分野だそうです。
21世紀に入ってから本格的に論議されるようになった、比較的新しい分野。とはいえ感性という観点に注目するのは、日常生活を考えるうえでとても有益なアプローチなのだといいます。なぜなら日常生活は、論理や倫理によってではなく、個々人の「感じ方」によって成り立っているはずだから。
そして著者によれば本書は、日本語で日常美学についてまとまって知ることのできる唯一の入門書。もちろん新しい分野である以上、いまも活発に議論が進められているため、「定説」を解説するようなものではありません。しかし、だからこそ読者にとっては、それぞれの観点から日常について考えるきっかけになるわけです。
極論すれば「あって当然」のことであるとも解釈できるだけに、改めて立ち止まり、日々の生活について考えることは決して簡単ではありません。
それに、たとえ自分の人生であったとしても、そのすべてをコントロールすることは不可能。私たちは自然のなかに存在する社会で生きており、自分ではないものの力に守られ、ときには危険にさらされながら生きているからです。
けれども一度立ち止まって周囲を眺めてみれば、生活に対するモヤモヤが言語化されたり、なにげない日々の行為が少しだけ意味あるものに感じられたりするかもしれない――。著者の考え方の根底には、そんな考え方があるわけです。
本書は特に、家という場所に焦点を当てて、具体的な事例を用いながら、日常美学の考え方を説明していきます。(中略)家は多くの場合、私たちの暮らしの中心にある場所です。
しかし、よくよく考えてみると、私たちにとって家とはどんな意味を持っている場所なのだろうか――これもまた、言語化しにくいけれど、私たちが自分自身を知るためには欠かせない問いの一つであるように思われます。(「まえがき」より)
なにげない家での暮らしを美学のライトで照らしてみると、日ごろの説明しづらい経験をことばで捉えることができるようになると著者は表現しています。一度ことばで捉えれば現状に対する理解も進み、自分の生活を考えなおすきっかけが得られるかもしれないとも。
ところで美学という学問は、もともと「言語化しにくいけれど、私たちがしている経験について語ることを可能にしてくれるもの」。日常においても、「普段のこんな経験も美学的な問題だったのか」と気づくことができるのです。そこで、その一例として「椅子」についての考察に注目してみましょう。
ちなみに椅子が議論の対象となりうる理由はふたつ。まず、「椅子は美術作品のように鑑賞できる」ものだから。もうひとつの理由は、家具はある場所を“家化”するときに、中心的な役割を果たしうるからだそうです。
美術史における「機能美」の否定とは?
一般的な美術作品とは違い、椅子について私たちは、座ってみることで(あるいは座るところを想像してみることで)それを鑑賞できたと感じることができます。
さらには椅子を置くことによって段階的に家という場を成立させ、日常の土台をつくっていくなかで、椅子と私たちは触れ合うことになります。
椅子については、純粋にその形や色の美しさを愛でるというだけではなく、いかに使えるか、という観点を抜きにして捉えることは難しいものです。
かといって、もし私たちが感性による判断を一切排して実用的な観点のみで椅子を見ているとすると、そもそも美術館のような場所で椅子を展示するという発想自体、生まれなかったでしょう。
つまり私たちは、実用的な観点と美的な観点の両方が絡み合った複雑な視線を、椅子をはじめとする家具や日用品に対して向けていると言えそうです。このようにして発見されるモノの美的なよさを、「機能美」と呼びます。(61ページより)
しかしこの段階で、「モノが持っている機能美を結びつけられるのか?」という疑問も出てきたとしても不思議ではありません。
“無関心性(美に対して、利益を得ようとしたりせずに“快”の感情を抱く概念)”という観点から美的経験を理解するのであれば、感性を通じてモノと向き合う場合、私たちは「それがなにかの役に立つかどうか」という判断基準を離れる必要がある、とされていたからです。
無関心性という基準が理論的に整えられ、機能と美の問題が切り離されるようになったのは、十八世紀の美学の誕生以降のことです。
古代ギリシャまで遡ると、プラトンは『ヒッピアス(大)』のなかで、ソクラテスに<有用なものは美しく、無用なものは醜い>という考えを語らせています。
これをソクラテス自身は反駁(はんばく)してしまいますが、このような考えが議論の俎上にのるということは、これがある程度ポピュラーなものの見方であったことを示しているでしょう。(61〜62ページより)
こうした見方のもとでは、あるものが期待されている目的を達成するとき、「それは美しいものだ」と判定されます。つまりそれは、「有用なものこそが美しいものである」という発想(古代ギリシャにおける「美」は現代的な意味よりも幅広いようですが)。
あるものが機能を持つということは、「なんらかの目的を達成するための役割をはたすことができる」ということと同じであるわけです。
たとえばコップは「飲み物を入れる」という機能を持っていますが、それは「飲み物を入れるという目的を達成する」ことを可能にしているのです。(60ページより)
花の機能を知らなくても美しさを感受できるわけ
ところが近代に入ると、美とそれ以外の価値をしっかり区別する発想が強くなってきたそう。むしろ美はそれ自体固有の価値であって、生活その他の領域とは重ならないものであると示すことで初めて、「美学」という学問領域が広義の哲学から独立して存在することが可能になったということ。
たとえばエドマンド・バークは『崇高と美の観念の起源』(一七五七年)における議論において、「飛ぶという機能を満たさないのにもかかわらず美しい孔雀の羽」「穴を掘って食べ物などを探すという機能にはぴったり適しているのにもかかわらず美しくない豚の鼻」を事例としながら、美と有用性の必然的な結びつきを否定します。
そして、近代における美学という学問の成立の立役者の一人となったカントの説において、美と機能との切り離しの理論化はさらに進んだと言うことができるでしょう。
カントは、美とは通常、その対象がどんなものであるかの観念を抜きにして把握される価値だと主張しました。(62〜63ページより)
それは、無関心性という特徴づけのこと。たとえば私たちが花を見るとき、一般的にはその花がどのような目的に奉仕しているかは考えず、その色や形自体を眺めることで美を感受することになります。花は植物の生殖器官ですが、わたしたちは花の美を感じるためにそうした知的な理解をする必要はないわけです。
このように、「これは机である」というような通常の認識のモードと、「花は美しい」と感じる美的判断のモードとを区別したことは、カント美学の核をなす発想だといいます。
たしかに私たちは美を感じるとき、目の前にあるものが<なんであるのか>を判断する必要はありません。たとえ花の機能を知らなくても、その色や形から美しさを感受できるということです。(63ページより)
本書が目指すのは、「日常生活をよりよいものにしていこう」という型どおりの提案や、いわゆる「ていねいな暮らし」の推奨ではなく、あくまで日常生活を見つめるためのことばを得ること。それは、いまある等身大の生活を繊細に観察することで得られるものだそうですが、たしかにそうしてみれば、自分では普通だと思っていた生活にも新たな魅力を感じ取れるようになるかもしれません。
Source: 光文社新書