『しをかくうま』
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『しをかくうま』九段理江著
[レビュアー] 池澤春菜(声優・作家・書評家)
人と馬の壮大な物語
この本を知ってから、手元に届くまでに少し時間があった。わたしはその間、ずっとタイトルのことを考えていた。
詩を書く馬?
死を欠く馬?
わたしは声優でもあるので、この二つには明確にアクセントの違いがあることがわかっている。けれど文字で見た時、その差は消える。第一七〇回芥川賞を受賞した「東京都同情塔」でも、作者は耳と脳に残る語感のフックを仕込んでいた。読み手は迷路のような言葉の意味と響きの中を彷徨(さまよ)い、さまざまに幻視する。
人と馬の長い長い物語。現代の主人公となるのは、競馬実況アナウンサー。愛する馬「シヲカクウマ」に少しでも近づくため、彼は謎の人物の元を訪ねる。もう一つのパートは、ヒとビ、それからマと呼ばれる存在の交流と歩みが描かれる。二つの物語は馬という存在を通して、やがて現在に繋(つな)がる。
人が最初に馬を知り、その背中に乗り、移動の神髄を知った瞬間から、今、現在まで。粗筋にしてしまうと、この物語のディテールはそぎ落とされてしまう。けれど、この作者の書くものは、一つ一つの言葉、そのディテールにこそ魅力があるのだと思う。
この作品で第四五回野間文芸新人賞を受賞した際、作者はこのように語っている。
「わたしはどのような言葉も聞き逃したくはなかった。それがテレビアナウンサーの言葉であれ、詩人の言葉であれ、馬の言葉であれ、言葉を忘れようとする人間の言葉であれ、今この瞬間に思いつく限りの言葉を試しながら、あらゆる可能性に対して返事をしたいと思った」
奔放でいて、隅々まで抑制の効いた語り。言葉と意味に対する踏み込みと飛躍。言語感覚というよりは運動感覚に近い、プリミティブさ。どこまで連れて行かれるのか。馬で疾駆するが如(ごと)きドライブ感と酩(めい)酊(てい)感は得がたい読書体験。(文芸春秋、1650円)