『センスの哲学』
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自分のリズムの心地よさを信じる 譲れないリズムこそが生き方になる
[レビュアー] 角幡唯介(探検家・ノンフィクション作家)
物書きになりたての頃、文章のリズムだけで読者の心をつかみたいと考えていた。意味内容は関係ない。中身とは別の、ただ文章を読んだときのテンポのよささえあれば読者は中毒をおこす。それこそプロの物書きが目指すべき文章だ、と。
本書を読むとそれもあながちおかしな考えではなかったかも、と感じる。絵を描いたりモノを制作するときに重要なのは意味よりもこうしたリズムだ。何かをテーマにデッサンするとき、私たちはその何かに絵を近づけようとする。つまりもともと正解がある。でもよほどの超絶技巧者でないかぎり正解を完璧に模写することはできず、逆に正解に近づこうとして近づけないと痛々しい。もともとある正解に合わせるのではなく、むしろ絵画なら線や配色や図形の配置といった表面的な組み合わせを楽しむ方法もあって、そのほうがセンスの良さにつながるのだという。
文章のテンポもリズムだし、絵画の線や配色も視覚的リズムだ。意味のない表面的なリズムの肯定。でも、この〈表面論〉はとんでもない奥深さにつながる。なぜならリズムの心地よさというのは人それぞれ異なる感覚的なもので、それを信じることは、よくわからないけれどもこれを心地よいと感じるにいたった私の来歴を信じることでもあるからだ。
出自や育ち、出会いやそこから開けた道、こうした偶然の積み重ねが私のリズムをつくる。リズムは理屈ではないだけに逆に譲れない。リズムを楽しむというのは、じつはこうした偶然性を引き受けて生きる、ということでもある。
反復と差異、偶然性といった概念に特徴づけられる著者の思想は、個人的には極地や奥深い山での旅で感じることや北極のイヌイットの思考に近く、共感する。芸術論の本だが、ある種の生の哲学でもある。あるいは生の実践から否応なしに染みだす、やむにやまれぬ純然たる表現、それが芸術なのかもしれない。