Kは不意に仕切の襖を開けて私と顔を見合せました
[レビュアー] 野崎歓(仏文学者・東京大学教授)
書評子4人がテーマに沿った名著を紹介
今回のテーマは「隣室」です
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夏目漱石の『こころ』が長らく読みつがれている理由の一つは、まるでミステリーのような興趣で引っ張っていく語り口の巧みさにあるだろう。語り手の学生「私」が尊敬し師と仰ぐ「先生」は、妻と二人でひっそり暮らしている。だがそのうわべの平穏の裏には何かがあるという予感に、「私」も読者も引き寄せられるのだ。
「下 先生と遺書」に至り、恋愛絡みの過去の悲劇が明らかにされる。その核心には「隣室」という空間の特異さがあった。
学生時代、「先生」は未亡人が営む「素人下宿」で暮らしていた。奥さんともお嬢さんとも打ち解け、心和む日々を過ごしている。だが同郷の親友「K」は経済的に困窮し、苦学するうち神経衰弱に陥る。見かねた「先生」は「K」を自分の下宿に紹介し、八畳の自室に付属する控えの四畳間に住まわせる。
お嬢さんをめぐる「先生」と「K」の三角関係という平凡な物語が異様な息苦しさをはらむのはこの間取りゆえである。何しろ同じ相手を恋してしまった二人が隣同士に暮らしているのだ。しかも女性のことなど気軽に話題にしない明治の青年たちである。「先生」は「K」をしきりに「剛情」と言うがそれは自分も同じこと。襖一枚隔てて、内心を明かさないまま互いに葛藤を抱え込む。
「Kは不意に仕切の襖を開けて私と顔を見合せました」。そんな一行が強烈なサスペンスを生む。この小説を翻訳で読む外国の読者には部屋の狭さと襖の薄さをよく理解してもらいたい。