『新版 お金の減らし方』
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【毎日書評】自分の生き方をデザインする「お金」の使い方・減らし方
[レビュアー] 印南敦史(作家、書評家)
『新版 お金の減らし方』(森博嗣 著、SB新書)は、2020年4月に刊行された同名図書の新版。ただし、相応の時間が経過しているため修正が必要かもしれないと思って確認してみたものの、なにひとつなおすところがなかったのだとか。それは、自分自身に変化がなかったことが要因なのだろうと判断されているようです。
僕は、最近になって年金をいただけるようになった。執筆の仕事は、五年まえの半分以下まで減らすことに成功した。
毎日をほとんど遊んで過ごしている。それ以前から遊び惚けていたのに、まだ遊ぶことがあったのか、と思われるかもしれないが、人間は遊ぶために生きているのだ。いくらでも遊べる。遊べなくなったらお終いだ。(「新版のまえがき」より)
なんともうらやましいスタンスですが、こう語る著者は前回のまえがきにこう記してもいます。
できるだけ早くから、自分の生き方をデザインすることが、とても大事だと思っている。自分はどんな人生を歩むのか、という大方針を早く持った方が良い。
人々の流れに身を任せて生きていく、と決めたのなら、それも良い。否、そもそも良い悪いの問題ではない。各自が勝手に、自分の好きなように生きればよろしい。そして、自分が思い描いたとおりに生きることができれば、これこそ最高だろう。それが、自由というものの定義である。(「まえがき」より)
こうした考え方に基づく本書において著者は、「自身がどのようにお金を使ったのか、どのようにしてお金を減らそうとしたか」などを明らかにしているわけです。
「きっと、あなたの減らし方とは異なる点が多々あるだろう」とのことですが、違う価値観に触れることはとても大切。そこから新たな考え方を身につけられれば、それが今後の人生をよい方向に導いてくれることも充分に考えられるからです。
そこできょうは第1章「お金とは何か?」のなかから、基本的な考え方を抜き出してみたいと思います。
お金はもともと仮想のもの
「お金」を知らない人はいない。子供でも知っている。幼稚園児でも、例外なく知っているはずである。しかし、この常識はそろそろ怪しくなっているかもしれない。なにしろ紙幣や硬貨ではない「お金」が広く出回りつつあって、今にも一般的になりそうな勢いだからだ。
日本は、まだそれほどでもないようだけれど、国によっては、電子マネーの方が完全にメジャになっているところもある。それらも、「お金」であることに変わりはない。(40ページより)
とはいえ電子マネーが登場するより前から、「お金」は電子化されていました。たとえば通帳に書かれた数字自体が電子、すなわちデジタルであるわけです。つまり、「通帳の紙に印字されているだけなのに、その数字に価値がある」と思い込める社会が現代だということ。著者はまず、そう指摘しています。
しかし現在、たとえば日本であれば、全国どこででも紙幣が使えます。そのため、お金は普遍的な価値を持っているように見えるはず。そしてお金が社会で使われているのは、国や政府が国民に信頼されている、あるいは法律が社会秩序の要となっているからであるわけです。
社会なんて俺には関係ない、と豪語する人もいるだろう。そんな反社会的な人間になったとしても、財布に日本銀行の発行する紙幣を入れて、大事に持ち歩いているはずだ。それがないと、弁当も買えない。電車にも乗れない。お金がなかったら、すべてを自給自足して生活していかなければならない。もう、そんな生活は、今ではほとんど不可能だと断言しても良いだろう。(41ページより)
お金が成立するのは、社会で大勢の人間が分業し、お互いの生産物を交換するような場が保障されているから。ただ大勢の人間が集まっただけで、自然に発生したものではないということです。
しかも、持っているものを交換するほどの知性があっても、なかなかお金のシステムまではつくれないもの。つまりお金が成立するためには、“社会を牛耳る絶対的な権力”が必要。著者はそう述べているのです。(40ページより)
お金は価値を交換する物差し
ただし重要なのは、「お金はものの「価値」を仮に数字に置き換えたものであり、それを示す指標ではない」という点。お金が先にあったのではなく、それ以前から世の中にあるもの(物品や、作業の結果など)に、それぞれの「価値」があったのですから、その価値を認めなければ交換もなかったことになるわけです。
たとえば、美味しい芋が一つもらえるなら、庭の掃除を半日してやっても良い、という交換が成立する場合、芋一つと庭を掃除した結果に、同じだけの価値がある、という認識を、少なくとも交換をする両者が持たなければならないだろう。
もし、この「価値」が等しいことが成り立たない場合は、芋をもう一つ増やさないと、同じ作業がしてもらえなかったりする。それでも、物や仕事にある一定の「価値」がある、という点は同じだ。(42〜42ページより)
当たり前の話ではあるものの、そこが肝心なのだと著者はいいます。たとえば、ある商品を買おうかどうしようかと悩んでいるとき、なにをどう比較するのか。そういった問題を向き合う際に、この認識が必要になるわけです。
5000円のバッグを買おうかどうするかと迷う場合であれば、普通はそのとき財布に入っている金額と、5000円という商品の価値を比較することになるでしょう。そのバッグをどのくらい欲しいかという気持ちとの比較もありますが、気持ちは数や量では測れないものでもあります。
もう少し金銭感覚を持った人なら、こう考えるだろう。「この五千円で、ほかに何ができるだろう?」と。その想像をするのは、だいぶ経験を持った冷静な人である。
バッグを買うと、五千円がなくなるのだから、その金額で買えるものが消えることと等しい。五千円あれば、美味しいものが食べられるかもしれない。数日後には払わなければならない期限のものがあったではないか。
払えなかったらどうなるだろう、と想像する。そうした想像をしたうえで、バッグを買うことを我慢する方が、それらを失うよりはましかもしれない、という結論を導き、購入をしない決断をする。こういった判断を日々しているのが、普通だと思われる。(40ページより)
重要なポイントは、ものの価値は“そのものの値段”ではないということ。値段はつけられているけれど、それは売りたい側が決めた数字。したがって買う側は、「それは買うに値するだろうか」という自分にとっての価値をそこに見出そうとするのです。(42ページより)
著者はときどき、「やらなければならないことが多すぎて、自分の好きなことが全然できません」という相談を受けるのだといいます。そしてその際には、「自分の好きなことをするために、やらなければならないことをしてみてはいかがでしょう」と答えるのだそう。たしかに考え方次第で、人生はいかなる方向にもシフトしていけるものなのかもしれません。
Source: SB新書