『笑う森』
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ネットの世界では感じない「体温」が人の心を変化させ、赦させる
[レビュアー] 吉田恵輔(映画『ミッシング』監督)
人間の想像力、共感力には限界がある。それは人が生きる上で必要な設定かもしれない。大震災で一万人以上が亡くなり、その家族、友人など傷ついた人数を合わせれば途方も無い。その大量の痛みにすべて共感をしていたら、自分の心がもたないだろう。
だから人間は他人事として世界を見る能力を手にしたのかもしれない。よく考えれば親友が彼女に振られたという身近な出来事ですら、本当の意味で共感などできない。「気持ちわかるよ」なんて台詞に説得力はない。
そんな未熟な人間がSNSを手にした。便利だが危険な一面がある。包丁も使い方次第という事とは全然違う。間違った正義感からの攻撃。なんとなく押したリツイートも立派な凶器。
本書では罪のない女性が、ありもしない噂、臆測から誹謗中傷を受ける。これは実際にあちこちで起きている現実だ。
昔で言ったら便所の落書きかもしれない。しかし、今の世の中、そんな甘いものではない。人の悪意に触れ、心を病み、自殺してしまう人だっている。
物語は自閉スペクトラム症の男児の失踪事件を中心に展開する。神森という深い森の中で消えた五歳児。育児放棄扱いの誹謗中傷を受けた母親。たまたま森に入った事情を抱えた人々など、さまざまな想いを巻き込み、展開は広がっていく。
別の木が絡み合い、お互いの養分を奪い合いながら成長する合体樹が幾度も登場するが、まさに合体樹のように登場人物達も絡み合い、想像のつかない姿に変化を遂げる。
その中で、人々は生身の無垢な温もりに触れ、変化が生じる。養分を奪い合うというよりは、分け与えるように。ネットの世界では感じない「体温」が人の心を変化させる。今の世の中で一番必要なのは、そういう体温なのかもしれない。
誹謗中傷をする側の人間像。これはちゃんと人間だった。自分と同じ普通の人間。その正確な描写のせいで、自分も無意識に誹謗中傷してしまう人間になるおそれを感じてしまう。ネットの向こう側、顔も見えない人間は怪物とは限らない。
本書で書かれる人間の醜さ、愚かさ。それをすべて理解した上でそれでも愛され、赦される存在だと感じる。人間の歴史上ネットの出現はつい最近の出来事で、これからどのように進化していくのかは想像出来ない。とてつもない速度で拡張する仮想世界。その無体温の世界の片隅に、人の思いやりが残る事を信じてみたくなる。